「江戸の瓦葺き(えどのかわらぶき)」の始まり
「江戸の瓦葺き(えどのかわらぶき)」の始まり 瓦で屋根を葺くことは、古く飛鳥から平安時代にかけて奈良や京都で行われていたが、主に寺院や宮殿などであった。...
View Article「衿白粉(えりおしろい)」の始まり
「衿白粉(えりおしろい)」の始まり 婦人が衿を白く塗る化粧法は、江戸時代末期から行われ始め、『続飛鳥川』に「女のえりに白粉ぬる事、上方風俗にて文政八年(1825)より始まり、蹴出し(けだし:腰巻の上に付ける足首までの下着。縮緬などあまり静電気が起こらない布を用いた)も同じ事なり」とある。艶(なま)めかしい縮緬の蹴出しを脛(すね)から覗かせることも同じ頃から流行し始めた。...
View Article「木曽踊(きそおどり)」の始まり
「木曽踊(きそおどり)」の始まり 日本における代表的な民謡として「木曽のナー御嶽山」で有名な木曽踊りは、その由来が最も古く、明暦2年(1656)版の『世話盡』や万治3年(1660)版の『萬歳踊』の中にその名が見え、既に江戸時代の初め頃から盆踊りとして広く諸国で流行していたことが判る。...
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「ちょぼ」の由来 芝居の舞台の横で、俳優の行動に従って浄瑠璃を語る際に、役者のセリフと義太夫の語り文句とがとかく紛れやすいので、その浄瑠璃の台本の語るべき個所にだけ、文句の脇に朱でチョボチョボ(点々)を打っていた。そのことから義太夫の演奏者ことを「ちょぼ」と呼び始めたのである。
View Article「喜太夫節(きだゆうぶし)」の始まり
「喜太夫節(きだゆうぶし)」の始まり 浄瑠璃節の一種で、虎屋喜太夫という人が、虎屋源太夫について薩摩節の曲を習い、ついに一派を成し、明暦3年(1656)に京都に出て、これを語ったのが始まりである。
View Article「縁切寺(えんぎりでら)」の始まり
「縁切寺(えんぎりでら)」の始まり 鎌倉時代、元寇の役で有名な執権・北条時宗の夫人で八代執権・貞時の生母である覚山禅尼が、晩年に鎌倉の山ノ内松ヶ岡の東慶寺の住職になった時、幕府に請うて、横暴な夫のために不当な圧迫や虐待を受けた哀れな妻が逃れてこの寺に投じた際は、3年間寺に住まわせて自然に夫と別れられるようにした。...
View Article「圓太郎(えんたろう)」の始まり
「圓太郎(えんたろう)」の始まり 明治13年(1880)頃、落語家の四代目橘家圓太郎が寄席の高座で巧みに乗合馬車の御者を真似して大変喝采をあびたので、誰言うと無く乗合馬車のことを「圓太郎馬車」と呼ぶようになった。 その後、見すぼらしい乗合自動車のことを軽蔑して「圓太郎」と呼ぶようになった。 圓太郎画像の出典:ウィキペディア
View Article「喜多流(きたりゅう)」の始まり
「喜多流(きたりゅう)」の始まり 日本の伝統芸能である能楽の内、能のシテ方の流派である。安土桃山時代に和泉国堺の喜多七太夫長能は、7歳の時に豊臣秀吉の前で「羽衣」を舞い「七つ太夫」と呼ばれたという。金剛新六の門に入って猿楽を習い、次いで秀吉に召されて一家「喜多流」を起こし、観世・金剛・金春・寶生の四座に加わり、五座となったのが始まりである。 喜多流画像の出展:喜多能楽堂
View Article「煙突男(えんとつおとこ)」の始まり
「煙突男(えんとつおとこ)」の始まり 昭和5年(1930)11月18日に、富士紡績川崎工場の煙突頂上に田辺潔という男が登り、会社との争議の応援示威を行って大いに世間を驚かし、21日に争議が解決したため滞空130時間で引き下ろされたが、それ以降、突飛なことをする者を「煙突男」と言うようになった。
View Article「追腹(おいばら)」の始まり
「追腹(おいばら)」の始まり 愛顧を受けた主君のために自害して殉ずることを言う。南北朝時代の文和元年(1352)閏2月20日に細川頼春が戦死した時に、その家臣が追腹を切ったのが始まりである。...
View Article「吉備舞(きびまい)」の始まり
「吉備舞(きびまい)」の始まり 明治5年(1872)に岡山の楽人・岸本芳秀が、大和国に大和舞があるように、吉備地方にも吉備舞が欲しいというので、これを作ったのが始まりである。次いで明治10年(1877)頃から姫路の振付師・淺田源兵衛らの力を得て、優美な舞いを付け、ついに大成されたものである。 吉備舞画像の出典:吉備舞の世界
View Article「扇売り(おうぎうり)」の始まり
「扇売り(おうぎうり)」の始まり 正月元旦に夜明けの若水を汲む音が聞こえるかと思う頃、お年玉に遣うための扇売りの声が「おうぎーおうぎー」と爽やかに聞こえてくる。江戸時代の風景の一つである。...
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