「江戸っ子(えどっこ)」の話
「江戸ものの生まれ損ない金をため(安永)」と川柳にも嘲笑されているように、江戸の開祖・徳川家康とは正反対の性格を持つ江戸っ子は、向う気が強く、空景気があって物に執着心が無く、喧嘩早いが仲直りも早い、見栄坊で威張りたがり、啖呵(たんか)を切る反面気前が良く、いかにも生き方が浅薄で軽々しいことと、江戸を天地とし、それ以外のことはめくらであり、独り合点の独りよがりであることなどが弱点だあった。
「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し口先ばかりで腸(はらわた)が無し」この江戸っ子という言葉は江戸時代中期から用いられ始め、古い文献では安永5年(1776)に出版された『俳風柳多留十一篇』の中に「江戸っ子にしてはと綱はほめられる」とあるのが初見で、天明4年(1784)に島田金谷が著した『彙軌本紀』の中に「老子曰、貴大金若小銭、是東都子之所顕(あらわす)気情」とあり、「東都子」という文字に「えどっこ」という振り仮名がしてある。それ以前は「江戸もの」とよばれていたらしい。この川柳にある「綱」は源頼光の四天王の一人である渡邊綱のことである。
次いで、寛政3年(1791)には俳優の四代目岩井半四郎が江戸の河原崎座の顔見世で暫(しばらく)のつらねに「しゃりとは似た山、おや玉に似ても似つかぬ替え玉は、ただ江戸っ子と御贔屓(ごひいき)を頭にいただくかけ烏帽子」と言っており、さらに寛政7年版の『廓通荘司』の中にも江戸っ子の名前が見られる。当時は既に新しい流行言葉となっていたらしい。なお、別に「吾妻っ子」とも言い、江戸っ子の資格は江戸生まれの男女を父母として、その三代目から江戸っ子というものだとも言われている。しかし、当時の小説家・西澤一鳳は市中には江戸っ子が一歩(10%)、斑(ぶち)が三歩(30%)で、残り六歩(60%)は他国か他郷の者だと皮肉り、江戸に生まれ江戸に住んでいる純粋な江戸っ子は極めて少ないと言っている。