「勧進帳(かんじんちょう)」の始まり
「勧進帳(かんじんちょう)」の始まり 有名な歌舞伎十八番の一つであるが、これは狂言作者の三世並木五瓶が能の「安宅」を歌舞伎化して七世市川団十郎のために書き下ろしたもので、その初演は天保11年(1840)3月に江戸河原崎座で行われたのを始めとする。...
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「勧進能(かんじんのう)」の始まり 勧進能は、太夫一代に一回だけのため一世一代能または御免能とも言う。 室町時代の寛正5年(1464)4月5日より三日間、山城国鞍馬寺の堂宇を再建する資材を得るために、京都の糺(ただし)河原において催されたのが始まりである。...
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「腕時計(うでどけい)」の始まり 明治35年(1902)頃より流行仕始め、当時の大きさは15形や13形であったが、次第に小型の物が喜ばれ、10形や8・9形となり、腕巻(ベルト)に用いる材質も革から鎖となり、さらにリボンも流行した。その後、金鎖などが流行し、昭和時代には婦人の間で「南京虫」と呼ばれる小型のスイス製腕時計が盛んにもてはやされた。 腕時計「南京虫」画像の出典:くまねこ堂・妻のブログ
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「采女(うねめ)」の始まり 後宮の女官で、天皇の傍に侍り、お食事のことを掌る者のことである。仁徳天皇の40年(352)に采女・磐坂媛(いわのさかひめ)の名前があることから、之より以前に既に存在していたと思われる。 孝徳天皇の大化2年(646)に勅を下して郡領以上の姉妹子女の中で容姿端正な者を貢ぎさせて、百戸をもって采女一人の料と定められたという。...
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「乳母車(うばぐるま)」の始まり 江戸時代末期の万延元年(1860)に幕府の遣米使節の新見豊前守正興らに随行してアメリカに赴いた福沢諭吉が、帰国の時に持ち帰ったものが、日本における乳母車の始まりである。 福沢諭吉が持ち帰った乳母車画像の出典:慶応義塾大学
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「厩(うまや)」の始まり 馬を飼う小屋のことを言う。文献に見られるのは『日本書紀』の応神天皇のくだりに「十五年(215)八月丁卯、百済王遣二阿直岐(あちき)一、貢二良馬二匹一、養二於軽坂上厩一。因以二阿直岐一令掌飼故号二其養レ馬之処一曰二厩坂一也」とあるのが始まりである。 厩『頭書増補訓蒙図』所載
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「裏書(うらがき)」の話 平安時代は書物のほとんどが写本で、巻物であった。そこに著者や筆者の署名が無い時に、その書物を伝えた人が、これは何某(なにがし)が書き写したものであると、真蹟が確かなものであることを保証するために、巻物の終りの方の裏側に、その由来を書いて署名したものが裏書である。 鎌倉時代からは手紙の表面に文句と月日と宛名を書き、署名を裏面に書いたものを裏書というようになった。...
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「観世流(かんぜりゅう)」の始まり 室町時代初期に大和国春日明神に仕えていた結崎次郎清次という祢宜が、たいへん猿楽に優れていたので、足利三代将軍義満に召されて観阿弥と名乗り、謡曲に節をつけて、田楽能の太鼓、大鼓(おおつづみ)、横笛に小鼓を加えて、これを猿楽の楽器と定め、道化をもっぱらとした従来のものを取り除いて別にこれを狂言とし、ついに能楽を大成して一家を興し観世流の元祖となったものである。...
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「勘亭流(かんていりゅう)」の始まり 芝居の看板や番付などを書く時に用いる特有な書体のことである。これは江戸の書家・岡崎屋勘六(勘亭と号す)が、堺町の中村座の依頼に応じて安永8年(1779)の春に、狂言「御贔屓年々曽我(ごひいきねんねんそが)」の大名題を書いたのが勘亭流の生まれた始まりである。...
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「絵看板広告(えかんばんこうこく)」の始まり 芝居の絵看板はさておき、商店の絵看板広告では、明治32年(1899)に東京市日本橋の三越呉服店の意匠係だった島崎柳村が、新橋の名妓をモデルにして描いた肉筆の等身大の素晴らしい絵看板を新橋駅に掲げたのが、日本における絵看板広告の始まりである。三越呉服店の絵看板 杉浦非水画画像の出典:ブログ・松山旅行記
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「絵銭(えせん)」の始まり 銭貨に大黒・恵比寿・駒引きなど色々な絵画や念仏題目の文字を鋳付けたものをいう。江戸時代の寛永13年(1636)6月に「寛永通宝」を鋳造した時、銭座において職工が祝賀のために戯作したのが始まりである。 絵銭画像の出典:ブログ・絵銭っす
View Article「絵草紙(えぞうし)」の始まり
「絵草紙(えぞうし)」の始まり 江戸時代に始まり、盛んに流行した絵入りの草紙のことをいう。『嬉遊笑覧』に「南畝老人(太田蜀山人)語りけるは、昔の絵双紙は唐かみ表紙にて土佐浄瑠璃、本文は金平などの本にてありしを、享保の頃より鱗形屋にて萌葱(もえぎ)の表紙をつけ鳥居流の絵本を出す。これ青本の始なり」とある。絵草子 十返舎一九作画像の出典:photo-make.jp
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「菊合(きくあわせ)」の始まり 殿上の侍臣を左右に分けて、両者から菊の花に歌を付けて優劣を競う遊びのことである。これはのんびりした平安時代にふさわしく、寛平年間(889~898)頃に始まったものである。 なお、江戸時代の大名たちが、重陽(ちょうよう:陰暦の9月9日に行われる節会。菊の節句)の宴に行った菊合は菊花の一輪と、その葉の一片とを催主におくって品評したものである。菊花画像の出典:阿波ナビ
View Article「喜劇(きげき)」の始まり
「喜劇(きげき)」の始まり 笑いの中に辛辣な風刺と皮肉を取り混ぜて演ずる劇のことである。日本においては明治36年(1903)10月に摂津国伊丹の桜井座において、曽我廼家五郎が曽我廼家十郎とともに喜劇の旗揚げを行ったのが始まりである。 次いで、明治37年正月には、初めて曽我廼家劇をつくり、さらに2月には大坂浪花座において公演を行った。後に、十郎との感情の対立から分離して、五郎劇と名付けた。...
View Article「穢多(えた)」の始まり
「穢多(えた)」の始まり 穢多という名は餌取(えとり)であり、遊猟者のために鷹や犬の餌を提供する賎民(せんみん)の名称であったが、のちには専ら牛馬を屠殺して皮革を製造する民族が身に穢れが多いという意味から、餌取が転訛して穢多(えた)と呼ぶようになったという。...
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