「メロン」の始まり
「メロン」の始まり 原産地は北アフリカから中央アジアかけた一体で、次第に世界的に分布したものである。紀元前2,000年頃に栽培が始まり、西に広がった種類をメロンと言い、東に広がったものをウリと呼んだ。ウリ科キュウリ属メロン種で和名は「甜瓜(てんか:マクワウリの漢名)」という。...
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「西洋歯痛止薬(せいようはいたどめくすり)」の始まり 江戸時代末期、『方庵日記』の嘉永元年(1848)11月14日のくだりに「歯痛妙薬、西洋経験ケリョウソフトという薬、蘭人持ち来るよし」とあり、次いで嘉永5年1月14日のところには蘭医学者として有名な伊東玄朴にケリョウソフト二匁壱瓶をお年玉として贈ったとある。
View Article「西洋婦人科書(せいようふじんかしょ)」の始まり
「西洋婦人科書(せいようふじんかしょ)」の始まり 日本において西洋婦人科の書籍が出版されたのは、江戸時代末期の嘉永3年(1850)3月に船曳卓堂がプレンキの婦人科書を翻訳して、これに『婦人病論』と名付けて著したのが始まりである。
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「最中(もなか)」の始まり 最中は饅頭のように舶来物ではなく、日本で生まれた純粋な和菓子の一つである。長持ちをして味も変わらず、いつの間にか菓子の王座に座っている。 この最中の名前の起源は『拾遺和歌集』巻3秋171の、源順の歌「池の面(おも)に照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のもなかなりけり」から出たものである。...
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「西洋本草学(せいようほんそうがく)」の始まり 日本に西洋本草学がもたらされたのは、江戸時代前期の万治2年(1659)5月に、江戸参府のオランダ使節ワーヘナールが老中稲葉正則にドドネウスの本草書を贈ったのが始まりである。...
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「西洋薬物科(せいようやくぶつか)」の始まり 日本で西洋薬物科が紹介されたのは、江戸時代後期に蘭方医として知られた桂川甫周(かつらがわほしゅう)の『和蘭薬選』が始まりである。 次いで、宇田川玄真(うだがわげんしん)が『和蘭薬鏡』および『遠西医方名物考』を著し、これによって西洋医方に用いる薬品方剤、製煉ならびに性能・主療の説などが初めて明らかになったのである。
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「西洋薬草(せいようやくそう)」の始まり 室町時代の永禄年間(1558~1570)に、織田信長がポルトガル宣教師に命じて近江国伊吹山に薬園を開拓させ、そこに西洋種の薬草を移植させた。これが西洋医薬を日本に取り入れた始まりである。
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「生理学(せいりがく)」の始まり 江戸時代末期の有名な蘭学者高野長英が、天保3年(1832)に著した『医原枢要』によって、生理学が日本の医学会に初めて紹介された。この書はデラハイエ・ブリューメンバッハ・ローセなどの生理書を翻訳編集したものである。 次いで、広瀬元恭がフランスのリセランドの書籍を翻訳して『人身窮理』を著すに及んで、日本における生理学は初めて系統的な論述となった。...
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「諸越(もろこし)」の始まり 江戸時代初期の慶長7年(1602)10月に、佐竹義宣が常陸国から秋田に移封した頃に創製され、秋田名物の中では最古の名菓である。 「諸越」の由来は「諸々の菓子に越して風味よろし」という意味から命名されたという。これは特産の小豆を原料とした粉に砂糖を調合して作ったもので、近代にいたってコーヒーやココアなどを混ぜるようになった。諸越画像の出典:ウィキペディア
View Article「紋別漬(もんべつづけ)」の始まり
「紋別漬(もんべつづけ)」の始まり 江戸幕府の漬物方を勤めた山田喜兵衛の家記によれば、寛永年間(1624~1644)に北条安房守氏平が島原の乱に際し、握り飯には黄粉・塩を用い、後に品切れになったので胡麻塩に改めたが、それも不足となったので、仕方なく大根を細かく刻んで味噌溜りに漬けて「溜漬(たまりづけ)」と称して軍用に供した。...
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「聖路加国際病院(せいろかこくさいびょういん)」の始まり 明治34年(1901)7月にアメリカ聖公会によって東京市京橋区明石町に設立され、院長はアメリカ人のトイスラー、副院長は久保徳太郎が就任したのに始まる。 最初は小さな診療所に過ぎなかったが、院長のたゆみない努力によって大規模な総合病院にまで発展し、昭和8年(1933)6月に竣工した広大な病院は、その設備と内容において名実共に日本一となった。
View Article「焼米(やいごめ)」の始まり
「焼米(やいごめ)」の始まり 『倭名抄』の中に「稲を炒って米となすなり、秋これを造る、青稲をもちゆ」とあるように、焼米というのは稲を炒って手で籾を落とし、さらにこれを煎ったものをいう。...
View Article「赤十字社看護婦(せきじゅうじしゃかんごふ)」の始まり
「赤十字社看護婦(せきじゅうじしゃかんごふ)」の始まり 明治19年(1886)7月に、赤十字病院長であった橋本綱常は陸軍軍医総監足立寛と計画して陸軍の中にも看護婦をおくこととなり、翌20年の春から養成を始め、明治27年の日清戦争に際して試みに広島予備病院にその看護婦を使用したところ、素晴らしい成績を上げた。これが陸軍病院において赤十字看護婦を用いた始まりである。...
View Article「八百屋煎餅(やおやせんべい)」の始まり
「八百屋煎餅(やおやせんべい)」の始まり 明治33年(1900)2月に、東京浅草区駒形の八百屋で荷車を引いていた息子が兵隊に召集されたので、母親は八百屋をやめて煎餅を焼くようになったのが始まりである。 初めは木の葉焼であったが本業であった八百屋を偲ぶよすがとして、蕪や南瓜の形に変えて、名前も「八百屋煎餅」と改め、商標の「蕪」を「家富」と書いて売り出したところ、通人の間に好評を博すようになった。...
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「赤痢(せきり)」の始まり 奈良時代の大宝元年(701)8月に制定された律令の中に、利(痢病のこと)の療治について注意してあり、これは赤痢と明確に言ってはいないが丹波康頼の『医心方』には病原と症状について「下痢をして熱を伴い、便の中に膿血を混ずるもの」があることを記載している。これを見ると、当時は既に赤痢が流行していたことは明らかである。...
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