「グラビア版(ぐらびあばん)」の始まり
「グラビア版(ぐらびあばん)」の始まり 大正10年(1921)6月中旬に東京朝日新聞社においてドイツ、アメリカ、フランス、イギリスなどの戦時ポスター大展覧会が開催され、これを写真に撮って『大戦ポスター集』を発刊した。これが日本におけるグラビア版印刷の始まりである。
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「倶楽部(くらぶ)」の始まり 明治5年(1872)4月に東京の西村勝三、伊東幸三らが欧米の風に習い東京府の許可を得て、ナショナルクラブという社交倶楽部を築地の元土佐屋敷邸に創設したのが始まりである。次いで、明治17年5月14日に当時の外務卿井上馨の提唱によって東京倶楽部の発会式が行われた。
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「訓点(くんてん)」の始まり 漢文を訓読する時に、漢字の上や廻りに書き加えられた符号や送り仮名などを訓点という。その始まりは応神天皇の85年(285)2月に王仁が初めて漢籍(漢文で書いた支那の書物)を日本に伝えた時からと言われている。...
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「慶應義塾(けいおうぎじゅく)」の始まり 福沢諭吉が江戸時代末期の安政5年(1858)10月に江戸に来て、鉄砲洲の中津藩中屋敷に塾舎を設けて藩の子弟に教授したのが始まりで、慶応9年(1867)3月には塾舎を芝の新銭座に移転し、初めて慶應義塾と称するようになった。そして、明治4年(1871)5月には三田にあった島津藩の屋敷跡に移転したのである。
View Article「携帯用録音機(けいたいようろくおんき)」の始まり
「携帯用録音機(けいたいようろくおんき)」の始まり 昭和15年(1940)4月に、松竹京都トーキーの土橋武夫部長が製作した携帯用同時録音撮影機が日本における携帯用録音機の始まりである。
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「劇評(げきひょう)」の始まり 江戸時代中期に江島其碩(きせき)と八文字屋自笑が三都俳優の芸評を冊子に編集し、黒表紙題して出版したのが始まりで、『嬉遊笑覧』に「役者評判記は其碩、自笑という者述作にして、毎年一月二日定式にて大伝馬町鱗形屋孫兵衛という絵草紙問屋売出せり、評判記は京、大坂、江戸歌舞伎役者の顔見世狂言の善悪の評なり」とあり、当時の人は皆、これを待ちかねて読んだという。
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「原稿料(げんこうりょう)」の始まり 江戸時代には狂言作者のほか、原稿を以て家を成す者はなく、安永・天明年間(1772~1789)に盛んであった黄表紙や洒落本もすべて通人たちの慰みであった。そして、評判となった本の作者へは、出版した書肆(しょし:書店)から著書の部数とほかに刊行した絵の小冊子を贈るぐらいに過ぎなかった。...
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「言語学(げんごがく)」の始まり 言語学とは言語を対象とする経験科学のことで、言語の本質や構造、言語の歴史的な変化などを文法・音声・意味・その他各種の分野を明らかにしようとする学問である。 明治時代には博言学と言われていたが、明治26年(1893)頃、加藤弘之がphilologyに「言語学」という訳語をあてたのが始まりである。
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「遣明使(けんみんし)」の始まり 室町時代初期の応永4年(1397)8月5日に、足利将軍義満は初めて使いを明に遣わし、次いで応永8年5月13日に、さらに僧祖阿を遣わして明主に書を贈ってから両国の交通は次第に頻繁となった。しかし、これはかつての遣唐使のように目的は文化を学ぶのではなく、外貨を獲得するための貿易を主眼としたものであった。
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「硯友社(けんゆうしゃ)」の始まり 明治18年(1885)5月に、東京神田三崎町の小説家尾崎紅葉の下宿において、石橋思案、山田美妙、丸岡九華たちが硯友社を創設し、雑誌『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』を発行し、次いで、川上眉山、巌谷小波、江見水蔭、広津柳浪らも参加して、明治文壇の中心となり、一世を風靡した。
View Article「言論の自由(げんろんのじゆう)」の始まり
「言論の自由(げんろんのじゆう)」の始まり 明治22年(1889)2月に公布された大日本国憲法の第29条に、一応は言論の自由が保障されていたが、実際には帝国主義政策のもとで言論の自由は制限され、戦時においては完全に奪われてしまった。...
View Article「公開演説(こうかいえんぜつ)」の始まり
「公開演説(こうかいえんぜつ)」の始まり 明治8年(1875)5月1日に北辰社の馬場辰猪らが東京下谷の麻利支天堂において行った公開演説が始まりである。 それにしても安倍首相の演説は中身の伴わない言葉遊びに過ぎない。自分が何を言っているのかも判らない脳みそ空っぽで、とても知的ではない。
View Article「工学博士(こうがくはかせ)」の始まり
「工学博士(こうがくはかせ)」の始まり 明治21年(1888)5月7日に松本壮一郎(まつもとそういちろう)、古市公威(ふるいちこうい)、原口要(はらぐちかなめ)、長谷川芳之助(はせがわよしのすけ)、志田林三郎(しだりんざぶろう)らに対して文部省から工学博士を授与したのが始まりである。...
View Article「工科大学(こうかだいがく)」の始まり
「工科大学(こうかだいがく)」の始まり 明治4年(1871)3月に、工学寮を設けたのが始まりである。次いで、明治10年正月に工部大学校と改め、さらに明治18年(1885)12月には文部省に属して工科大学と称するようになった。なお、当時の科目は土木学、機械工学、造家学(建築学)、製造化学、造船学、電気工学、鉱山学、冶金学などであった。
View Article「工業学校(こうぎょうがっこう)」の始まり
「工業学校(こうぎょうがっこう)」の始まり 明治14年(1881)正月に創立された文部省の東京職工学校が始まりである。そして、明治23年4月に至って東京工業学校と改名された。
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「攻玉舎(こうぎょくしゃ)」の始まり 海洋学者の近藤真琴が明治2年(1869)4月に、兵部省の招きによって鳥羽より上京した時、麹町の鳥羽藩邸において公務の余暇を利用して子弟に教授し、次いで築地海軍操練所の管内に官邸を与えられ、私塾を開いたのが攻玉舎の始まりである。オランダ語や英語による航海術の教えは後の海軍兵学校への進学予備校として知られ、現在でも学校法人として存続している。
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