「遣隋使(けんずいし)」の始まり
推古天皇の15年(607)7月3日に、小野妹子(おののいもこ)を大使に、鞍作福利(くらつくりのふくり)を通事(通訳)として随に派遣したのが始まりである。その時に厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみおうじ:聖徳太子)が摂政として贈った国書に「日出処(ひいずるところ)の天子が書を日没処(ひぼっするところ)の天子に送る」とあったので、隋の焬帝はつむじを曲げて「蛮夷の書禮無きものあらば復聞するなかれ(今後こうした不都合な上書きは天子の耳に入れてはならない)」と言ったという。
小野妹子は翌16年4月に使命を果たして、隋の使節・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国した。
遣隋使を派遣した理由は、聖徳太子が政治と社会の進歩とを企図され、それには直接隋の文化を視察し、これを輸入することが必要であると感じたからである。