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Channel: 原始人の見聞
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「遣米使節(けんべいしせつ)」の始まり

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「遣米使節(けんべいしせつ)」の始まり
 江戸時代末期に幕府が日米和親条約の批准交換のために、新見豊前守正興を正使に、村垣淡路守範正を副使に、小栗豊後守忠順を監察として、万延元年(1860)正月19日に米艦ポーハタンに乗ってアメリカに派遣し、また別に軍艦奉行木村摂津守嘉毅、船将勝鱗太郎義邦は軍艦咸臨丸に乗ってこれに随行し、首尾良く使命を果たして9月29日に帰国した。これが日本の国使を北アメリカ合衆国に派遣した始まりである。
 その際の使節の決心は非常なもので、『村垣日記』に「むかし遣唐使と言えどわずか海路をへだてたる隣国なり、米利堅(メリケン)は皇国と昼夜反対にして一萬里の外なり、かく例もなき大任を蒙り五大州に名の聞えんことは実に男子に生れ得て甲斐あり。かえりみれば愚かなる身にて天地開闢(かいびゃく)以来はじめて異域の使命を蒙り、君命をはずかしむれば神州の恥辱ならんと思えば胸苦しきことかぎりなし」と言っている。
 船に積み込んだ品物には、米75石、灯油1石、炭200俵、醤油2石3斗、味噌6樽、焼酒1石5斗、香物6樽、茶50斤、小豆2石、大豆2石、麦4石、鰹節1,500本、梅干4壷、塩3俵、胡椒2斗、唐辛子5升、蝋燭1,000挺、草鞋1,000足、提灯、ぼんぼり、手燭などがある。
 アメリカの新聞には使節のチョンマゲの漫画を載せて「日本人は実に用心堅固な民族なり。なぜならば常に頭にピストルを備えている」と皮肉られている。

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