「ギャング」の始まり
「ギャング」の始まり アメリカの大規模な悪事をはたらく団体の名称であるが、日本では昭和7年(1932)10月6日に、共産党員の今泉善一・中村経一・西代義治ら3名が、資金調達のために川崎第百銀行大森支店をピストルで白昼襲撃し、3万円を強奪して逃走した「赤色ギャング事件」が発生し、その当時大きなセンセーションを巻き起こしたことがある。この事件からギャングという言葉が広く一般にも盛んに使われるようになった。
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「求人広告(きゅうじんこうこく)」の始まり 明治5年(1872)7月14日の『東京日日新聞』に「乳母雇入度に付き心当たりの者は呉服橋内元丹波守邸内天野氏へお尋ね下されるべく候、もっとも本乳にして乳さへ宜しく候へば、給金は世上より高く進ずべし」という、母乳が必要なため乳母を高給で雇い入れるという広告が掲載されており、これが求人広告の始まりである。
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「急須(きゅうす)」の始まり 茶を煎ずるのに用いる陶器のことで、直接火にかける薬缶(ヤカン)とは異なる。 江戸時代後期の宝暦6年(1756)頃に、印聖と称せられた篆刻家の高芙蓉によって創製されたのが始まりである。よく、戦国時代~江戸時代中期を描いた映画や時代劇に登場することがあるが、時代考証が間違えている。 横手の急須画像の出典:ウィキペディア
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「行商(ぎょうしょう)」の始まり 古くは連著(れんじゃく)とか裨販(ひさぎびと)とも言った。この連著(れんじゃく)とは品物を背負う道具の名前であるという。また、僧形の姿で行商をする者を売子(まいす)と言い、女性の行商人を販婦(ひさぎめ)・市女(いちめ)と称し『今昔物語』や『源氏物語』に見られるのは、行商の始まりも随分古いことになる。...
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「脇息(きょうそく)」の始まり 古くは脇机(わきずき)または夾膝(おしまつき)とも言い、木と布帛(ふはく:綿・麻・絹の布)などで作り、これに寄り掛かって安息する道具である。...
View Article「共同結婚式(きょうどうけっこんしき)」の始まり
「共同結婚式(きょうどうけっこんしき)」の始まり 開拓地の耕作に従事する青年が、生活改善の趣旨から共同で行った結婚式のことを言う。これは昭和7年(1932)4月3日に、宮城県桃生郡広淵沼開墾地を耕作する8人の青年が、同地の農業会館に於いて極めて簡単な方法で三三九度の盃を交わし、服装も洗いざらしの作業着のままで、8組の新郎新婦が誓約書を朗読したのが始まりである。
View Article「共同電話(きょうどうでんわ)」の始まり
「共同電話(きょうどうでんわ)」の始まり 電話の需要が多いのにもかかわらず、これに応ずることが難しく、困り切った電通省が何とか早くて安いものを生み出したのが、この共同電話案であった。それまでの親子電話と違って、子電話を3個から10個まで親電話にしがみつかせるのが特徴で、子電話と言ってもれっきとした一人前の電話である。...
View Article「共同募金(きょうどうぼきん)」の始まり
「共同募金(きょうどうぼきん)」の始まり このコミュニティ・チェスト運動はスイスの一牧師によって始められた。コミュニティ・チェストとは共同社会の慈善箱という意味である。 日本では「少年の町」で有名なアメリカのフラナガン神父の勧奨によって、昭和22年(1947)11月25日から12月25日の一ヶ月に亘り、第一回の共同募金運動を行って寄付者に赤い羽根のマークをつけたのが始まりである。
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「切り髪(きりがみ)」の始まり 夫が身罷った時に、悲嘆のあまりに髪を切って棺の中に入れ、操を立てようと誓い、あるいは深く契りあった愛人に、その心中を見せようとして黒髪を切ったことをいう。...
View Article「切棄御免禁止(きりすてごめんきんし)」の始まり
「切棄御免禁止(きりすてごめんきんし)」の始まり 江戸時代に、武士は罪のない百姓町民を些細なことで責め、いわゆる切棄御免の勝手な振る舞いを行っており、武士の特権としてこれを訴えることが出来なかった。...
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「霧吹器(きりふきき)」の始まり 明治13年(1880)8月9日の『東京絵入新聞』に、「発明、香水、石炭、炭酸、防腐水、きり吹機械」と、日本橋上槇町大蔵商店の広告が掲載されていた。これを見ると当時すでに新発明として霧吹器が使われ始めていたことが判る。
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「禁煙(きんえん)」の始まり 1492年(明応元年)にコロンブスがアメリカ大陸を再発見した時に、サン・サルバドル島付近の原住民に贈り物をすると、原住民はその返礼として持っていた武器と一緒にある草の葉を差し出した。これが煙草の始まりである。コロンブス一行がスペインに帰って煙草を吸ってみせるとキリスト教にはないことなので「悪魔の行為」であるとして弾圧されたという。...
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「近眼鏡(きんがんきょう)」の始まり 室町時代の天正2年(1574)9月3日に、宣教師ウルカンが近江国安土に来て織田信長に拝謁した際に、献上した品物の中に芥子(けし)を卵のように見る事が出来る近目(ちかめ)鏡と、七十五里を一目で見ることが出来る遠眼鏡があったと『南蛮寺興廃棄廃記』に書いてあり、これが近眼鏡が舶来した始まりである。
View Article「金看板(きんかんばん)」の始まり
「金看板(きんかんばん)」の始まり 江戸時代中期の天和2年(1682)頃から、江戸市中に於いて商家が金箔や銀箔を使って看板を作り始めた。そこで五代将軍綱吉は僣上の沙汰(せんじょうのさた:身分をわきまえずに差し出た行為をしたことに対する処分)としてこれを禁じ、また看板に「天下一」と書くことも禁じた。
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「金婚式(きんこんしき)」の始まり 明治23年(1890)10月25日の『東北毎日新聞』に、宮城県桃生郡中津山(現在:宮城県石巻市桃生町中津山)の千葉泰蔵という人が「結婚して五十年を経過し、こんにちでは子孫三夫婦が打ちそろって和気堂に溢るるをもって、このたび金婚式を施行するについて、友人の松田常吉より江湖の祝詠をこいねごう」という趣旨の広告を掲載した。これが日本における金婚式の始まりである。
View Article「清元節(きよもとぶし)」の始まり
「清元節(きよもとぶし)」の始まり 江戸時代末期に清元延寿太夫が始めた浄瑠璃節の一つである。『遊芸起源』のなかに「清元節の祖は初代富本豊前掾(ぶぜんのじょう)が門人富本齋宮太夫(いつきだゆう)なり。齋宮太夫は筑前福岡の藩士清水太左衛門が次男にして徳兵衛といひし者なり。寛保三年(1743)江戸へ来たりて富本豊前の門に入り鍛錬の功を積みて師とともに当時その名高かりしといふ。天明元年(1781)...
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