「済生会(さいせいかい)」の始まり
「済生会(さいせいかい)」の始まり 明治天皇の恩師金を基金にして設立された財団法人(現在は社会福祉法人恩師財団済生会)で、明治44年(1911)5月9日に初めて設立され、次いで8月21日に伏見宮貞愛親王を総裁に推戴(すいたい)し、大正5年(1916)5月3日に東京芝区赤羽に設立された済生会病院の竣成を見るに至った。
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「祭治(さいじ)」の話 病気にかかった時にマジナイをして治療することを「祭治」という。 日本では平安時代頃から丹波康頼の『医方心』などにも採用され、次いで鎌倉・室町時代でも医家で用いられていたが、戦国の世になって符咒(ふじゅ:まじない)は迷信であると言って、これを排止して本道(内科)の医書には採用しなくなった。...
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「酒嫌いになる薬(さけぎらいになるくすり)」の話 昔から支那では狼の糞の中にある骨を煎じて飲むと酒が嫌いになると伝えられていた。...
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「乾飯(ほしいい)」の由来 「糒(ほしいい)」とも書く。これは米を蒸して乾燥させた物である。古代より兵糧(ひょうろう)としたり、旅行に携えたりした。...
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「サナトリウム」の始まり ラテン語のSa-natreが語源で、日光療養所あるいは自然療養所を意味し、郊外の林間・海浜・高原などに設けて、清浄な空気と日光を利用し、主として呼吸器病の患者を収容する所を言う。 紀元前500年前に医聖ヒポクラテスによって提唱されているが、サナトリウム療法の創設者はドイツのブレエメルが1854年にゲルベルスドルフに模範的なサナトリウムを設けたのが始まりである。...
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「サルヴァルサン療法(りょうほう)」の始まり 性病の特効薬として広く使用されていた。これが「606号」と言われているのは、製品番号によって名付けられたからである。 この薬は、明治42年(1909)10月にドイツのフランクフルト大学のエールリッヒ研究室において、日本の秦佐八郎が完成させたものであるが、彼は恩師と共に発明したように発表して、医学界の美談となった。
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「産科学(さんかがく)」の始まり 太古の医術では、外科に次いで起こったのが産科であり、日本では伊邪那美命が妊娠された時、すでに産室が在ったことが『古事記』に見られ、その当時は、お産の際は必ず新しい家を建て、お産が終わると火で産室を焼いたものである。...
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「産児制限(さんじせいげん)」の始まり 人工的に産児を調製することは古くから密かに行われてきたが、大正9年(1920)3月5日にアメリカのサンガー夫人が来日し、公然と母体の保護と優秀児の育成のため産児制限の必要性を説いてから、広く論議されるようになった。 次いで、大正11年3月10日に再び来日して各地を遊説したが、真面目に耳を傾ける者は頗る少なかった。...
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「産婆(さんば)」の始まり 文武天皇の大宝元年(701)8月に定められた律令には女医の制度があって、優れた女性を撰んで安胎産難の方法を教習させたのが始まりである。次いで、元正天皇の養老6年(722)11月に初めて置かれた女医博士は女医(助産婦)を教え導く職であったが、後にはこの制度も次第に廃れてしまった。...
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「産婆の養成(さんばのようせい)」の始まり 古くは経験のある老婆や取上婆(とりあげばばあ)と称する者に依頼したものであるが、衛生知識のないために危険も頗る多かった。そこで完全な産婆を養成することとなり、明治9年(1876)9月に「産婆教授所」を東京府病院に設けて、助産術を教えたのが、日本において学術的な産婆を養成した始まりである。
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「産婦人科(さんふじんか)」の始まり 明治6年(1873)に杉田玄瑞が『産科実函』を著し、次いで高橋正純が『日講記間産科論』を、小林義直が『産科摘要』などの西洋における産科の本の翻訳を世に出したが、産婦人科の専門医として来日したのは、明治7年にドイツから来たウエルニッヒが始まりである。
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「乾肉(ほじし)」の始まり 古くは脯(ほじし)または腊(ほじし)と書いた。鳥獣魚介を乾燥した物を言い、鶏肉を干した物は脯(ほしとり)や魚肉を干した楚割(そわり)・鰹節・目刺(めざし)などがあり、これらは古代から用いられていた。 東大寺正倉院文書の『薩摩国天平八年正税帳』の中にも「雑腊壱斗伍升」とある。
View Article「侍医(じい)」の始まり
「侍医(じい)」の始まり 侍医とは、常に天皇の近辺に侍して健康をはかり、その不予なるにさいしては、お脈を拝診し、お薬を奉る職掌をいう。 文武天皇の大宝元年(701)8月に制定され、内薬司の所属とされたのが始まりである。
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「歯科医(しかい)」の始まり 奈良時代には特に歯科医は無く、耳目口歯を併せて専門の一科をなしていた。次いで平安時代に入り、六条天皇の仁安2年(1167)ごろに丹波兼康が医術に通じ、特に口舌を治療することが上手で有名であった。その子孫である金保玄泰に至って口歯科を専門として、これを口中科と称して徳川家に仕えた。...
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