「医事雑誌(いじざっし)」の始まり
「医事雑誌(いじざっし)」の始まり 明治6年(1873)11月に、オランダ医学の権威である坪井信良が、オランダの『医事新説奇聞』を翻訳し「和蘭医事雑誌」と題して、毎月一回刊行したのが始まりである。明治8年12月までに43号を発刊した。
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「医事制度(いじせいど)」の話 文武天皇の大宝元年(701)8月3日に制定された大宝律令のよって、内薬師や典薬寮などが設けられ、初めて我が国における医事制度が整備された。現在でいう内科・外科・小児科・鍼科・按摩科・眼科・耳科・口歯科などの専門科があり、女医も既に居たという。そして、内科は7年、外科および小児科は5年をもって修業年限と定め、また国費で学生を教育し、あるいは試験に合格した者を医師に任じた。
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「医者(いしゃ)-フランスの小咄(こばなし)-」 ある女房が重態になり、明日をも知れぬという状態になったので医者が呼ばれてきた。 「先生さま、どうぞ女房をお助け下さいませ、貧苦をともにした女房で御座います。費用はどれだけかかってもかまいません。できるだけのお手当をお願いします」...
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「医師の剃髪(いしのていはつ)」の始まり 鎌倉時代初期の永久3年(1221)10月に、隠岐島に流されていた後鳥羽院(後鳥羽天皇)の権侍医・施薬院使和気長成が剃髪して寂信(あるいは受佛)と号したのが始まりという。 また、『青嚢瑣探』には、中山定親の日記『薩戒記』を引用して、足利義詮(よしあきら:1330~1367)の時に僧士佛(坂慧勇)が医をよくして上池院の号を賜ったのが始まりだとも言う。...
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「医者の国家試験(いしゃのこっかしけん)」の始まり 国家試験はアメリカのインターン制度を真似したもので、各専門医になるにしても一応は全科の応急措置を心得ていなければならないという目的と、学生中のポリクリニック(医学部高学年に行う臨床実習)だけでは物足りないという考えから設けられたものである。...
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「医師の西洋留学(いしのせいようりゅうがく)」の始まり 江戸時代末期の文久2年(1862)9月に、林研海(はやしけんかい)が、西周(にしあまね)、伊東玄伯(いとうげんはく)らと共にオランダの帆船に乗って長崎を出発し、翌文久3年5月にロッテルダムに到着して、ライデン大学で医学を学び、次いで軍医学校に入って研究に努め、明治元年(1868)12月に帰国したのが始まりである。...
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「医者の薬料(いしゃのやくりょう)」の話(3) 近代になって、医術は職業化してしまい、医者と患者の関係は金銭によって左右されるようになり、金銭の力によって病気が治ったり治らないような印象を大衆に与えるようになった。...
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「医者の苗字(いしゃのみょうじ)」の始まり 江戸時代初期には、医者は僧体で十徳(じっとく)と呼ぶ着物を着て、小脇指しを帯び、御殿医(御典医)以外は駕籠に乗ることはなく、供廻(ともまわ)りもつれず、町人と同じような家に住んで、苗字も名乗らないのが普通であった。それが苗字を名乗ったり駕籠に乗ったりするようになったのは寛永(1624~1644)の頃からである。...
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「医者と洋服屋(いしゃとようふくや)」の小話 医者が新しい洋服を注文したが、仕立てが気に入らず、具合も悪いので大いに怒り、すぐさま洋服屋に突っ返したが、かねてから自分が治療をしてきたある婦人が死亡したので、寺院で会葬された時に、かの洋服屋も参列しており、思わず顔を見合わせた。すると 洋服屋「先生、折角のお骨折りも甲斐がありませんでしたね…」 先 生「人の寿命というのはしかたがない」...
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「医書(いしょ)」の始まり 平安時代、平城天皇の大同3年(808)5月3日に撰せられた『大同類聚方(だいどうるいじゅうほう)百巻』が医書の始まりである。 これは天皇が日本固有の医方および韓医方が散逸することを憂いて、諸国の神社や民間の豪族旧家などに命じて伝来の薬方を提出させ、出雲広貞と安倍真直に選出類聚させたもので、これによって治療の方法を研究させたと言われている。...
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「医書の板刻(いしょのはんこく)」の始まり 室町時代、後奈良天皇の大永8年(1528)7月に、和泉国の婦人科医であった阿佐井宗瑞(あさいそうずい)は、中国の明の『医書大全』を得たが、その流伝が極めて少ないのを嘆き、自ら私財を投げ出してこの書を覆刻したという。これが我が国における医書の板刻の始まりである。
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「泉熱(いずみねつ)」の話 昭和2年(1927)の春に、金沢において高熱と発疹がでる病気が流行し始めた時、これを診断した金沢医大の泉仙助教授が「一種の猩紅熱(しょうこうねつ)様発疹性熱性病」と報告してから、「泉熱」と呼ばれるようになった。 初めは高熱が出て、しばらくは平熱が続き、次いで二度目の高熱が出て発疹を伴い、その後熱が下がって全快する。病原体はウイルスとされ、ネズミによる媒介が考えられている。
View Article「医生の留学(いせいのりゅうがく)」の始まり
「医生の留学(いせいのりゅうがく)」の始まり 飛鳥時代、推古天皇の16年(608)9月に、小野妹子(おののいもこ)を大使として隋国に派遣された時、医生の福因(ふくいん)と恵日(けいじつ)は大使にしたがって中国に留学し、31年(623)7月に帰国した。これが日本人として外国に留学して医術を修得した始まりである。
View Article「胃腸病院(いちょうびょういん)」の始まり
「胃腸病院(いちょうびょういん)」の始まり 明治20年(1887)5月に、長与称吉(ながよしょうきち)はヨーロッパに留学し、ドイツのミュンヘン大学医学部で胃腸病を専攻し、明治26年9月に帰国して、29年2月に東京・麹町内幸町に胃腸病院を開業した。これが我が国に於いて権威ある専門医の胃腸病院の始まりである。
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「糸脈(いとみゃく)」の始まり 川柳に「御簾越(みすごし)の脈は病の綱渡り」とあるように、昔の漢方医は高貴な人の体に触れるのは恐れ多いと言って、絹糸の一端をその人の脈所に結びつけ、他の一端を医者が持ち、間接的に脈を計ることを「糸脈」と言った。...
View Article「医博士(いはかせ)」の始まり
「医博士(いはかせ)」の始まり 欽明天皇の時代に疫病が流行して死者が多かったため、欽明天皇の14年(553)6月に使節を百済(くだら)に遣わし、医・易・暦などの各博士を代わる代わる往復させ、また色々な薬物を送るように命じた。...
View Article「捻り餅(ひねりもち)」の話
「捻り餅(ひねりもち)」の話 粳米だけで作られたもので、これは酒造用の米を蒸かす時に、杜氏(とうじ:酒を作る技術者)が手のひらに米を載せて、その蒸かし具合を見るついでに捻り潰して餅にするところから「捻り餅」の名前が付けられた。捻り餅を乾燥すると石のように固くなる。これを焼くと香ばしく、特殊な味わいがあるところから、広く進物として用いられるようになった。 捻り餅画像の出典:民宿まつや 浜歳時記
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