「医者の薬料(いしゃのやくりょう)」の話(2)
江戸時代中期の享保年間に香月牛山が著した『習医先人』の中で、医者が謝礼を受ける心得を説いた文章に「中華も本邦もともに病(やまい)癒(いえ)てはなおさらなり、その病治せずしても、その謝礼とて金銀衣服酒肴(しゅこう)などを、その分限(ぶんげん)よりも過分に奉ずることになり、主君の病を治してさえも謝貲(しゃし:御礼の財貨)を給わる、況(いわん)やそのほかにおいておや、しかれば医師の大都会の地に居住(すまい)するはいうにおよばず、その国その郷所々の広く狭きにしたがって富を得る者多し、されど猶あきたらず、その奢(おごり)をきわめ俗楽をこととし、身の栄耀(えいよう)に費やすをもって何ほど世間の施しを受くれども足ることなく、家産乏しき類(たぐい)のもの多く、またかく世間の施しを受けたる金銀をみだりに無益の私用にのみつかい、捨てること芥(あくた)のごとくするをもって天命ゆるさず、子孫につき災害多く富は得れども子孫繁栄せざるものまま多し、医たらんものここにおいて心を用うべきなり、ただ人の病を治さんとのみ思い、仮にも謝貲に心を置くべからず、貴賤貧富をえらばず治すを施す時に、求めざれども、おのずから貲を奉ず、これ学ぶや禄この中にありという義にひとしかるべし」とあり、まだ当時の医者は病人の身分相応の意志に任せたのである。