「伝言板(でんごんばん)」の始まり
「伝言板(でんごんばん)」の始まり 「K君、3時間待ったが来ないので帰る」などと、書いた人が憤慨していた様子が手に取るようにユーモアを漂わせている駅の伝言板は告知板とも言い、昭和2年(1927)7月2日の『鉄道例規』によって初めて設けられたものである。しかし、昭和16年7月1日より物資節約という命によって一旦廃止されてしまった。
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「都営住宅(とえいじゅうたく)」の始まり 太平洋戦争後の住宅難を緩和するために、東京都では住宅の建築を公費で行い、これを都民に貸し付けることになった。しかし、申込者が多かったため、昭和24年(1949)9月30日に第一回の抽選を行ったが、その当選率は40人に一人という哀れな状態であった。
View Article「銅瓦(どうがわら)」の始まり
「銅瓦(どうがわら)」の始まり 銅瓦は奈良時代には既に用いられており、『帝王編年記』の称徳天皇のところに「天平神護元年(765)、今年西大寺をつくり、七尺の金銅四天像三体を安置す、意のごとく鋳しおわんぬ、(中略)此の寺は銅瓦をもってこれを葺く」とあり、おそらくこれが文献に見られる最初であろう。 銅瓦は主として神殿や寺院とか高級家屋に使用されていた。
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「銅像(どうぞう)」の始まり 日本における銅像の始まりは石川県金沢市の兼六公園にある日本武尊像で、作者は富山県高岡市の工人・金森藤兵衛である。これは「明治記念之標」として明治13年10月26日に建立された。「明治記念之標」とは西南戦争で戦死した人たちの忠魂碑である。石川県内からも明治政府軍として戦争に参加し、390人の人が亡くなった。...
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「銅倉(どうのくら)」の始まり 江戸時代初期の元和3年(1617)に、徳川二代将軍秀忠が東照宮を下野国の日光山に造営した時、神廟のかたわらに宝庫を造り、銅(あかがね)でこれを包み、これを銅倉(奥社銅神庫)といった。これが日本での銅倉の始まりである。 銅倉(日光東照宮奥社銅神庫)画像の出典:ウィキペディア
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「遠眼鏡(とおめがね)」の始まり 遠眼鏡は望遠鏡のことである。安土桃山時代の天正2年(1574)9月3日に、宣教師ウルカンが近江国安土城に到着して、織田信長に拝謁した時、献上品の中に七十五里を一目に見る遠眼鏡があったと『南蛮寺興廃記』にあり、おそらくこれが遠眼鏡の舶来された始まりであろう。...
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「棟梁(とうりょう)」の始まり 大工などの頭(かしら)を棟梁と呼ぶことは、古く奈良時代から用いられており、その始まりについては江戸時代後期に小島知足が書いた随筆『酣中清話』のなかに「いま大工の長を棟梁と言ふ、法隆寺の什物に、金(支那)の大定十八年つくれる香炉あり、その銘に「棟梁祗毗寺の住持三重大師恵琚」とあるのをみれば、物をつくる長なる人に言ふこととみゆ」とある。
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「燈籠(とうろう)」の始まり 神仏に燈籠を供えることは平安時代から行われていたが、その始まりは『毘奈那雑事』によると、夏季は灯明に虫が群衆することが多かったので、これを避けるために仏が教えて燈籠を作らせたとも、また当時は夜陰に乗じて何か魔物でも来ないかと怖れられていたので、それを防ぐために燈籠を作り、火を点ずるようになったとも伝えられている。...
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「時の鐘(ときのかね)」の始まり 天智天皇の10年(671)4月25日に、初めて時を計る古代の方法の一つ漏刻(ろうこく)を新台におき、鐘鼓(しょうこ)を打って時を知らせるため、官吏の参内の時を定められたのが始まりである。 江戸時代には、主としてお城の櫓に備え付けられていた太鼓によって時刻が報じられた。それが、明治時代には大砲に代わり、さらに昭和時代に入ってからはサイレンに代わったのである。
View Article「床屋の看板(とこやのかんばん)」の始まり
「床屋の看板(とこやのかんばん)」の始まり 昔、西洋の理髪師は仕事をする傍ら医者を副業としていたので、赤・青・白の看板を用い、彩色の赤は動脈、青は静脈、白は布を表していたという。 その始まりについては、1540年(天文9年)にフランスのパリの外科医メヤーナキールという人が、赤・青・白の三色の練縞(ねりしま)を床屋の看板にしたのが始まりと言われている。...
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「屠殺場(とさつじょう)」の始まり 原始時代から食糧となる動物を屠殺することは行われてきたが、奈良時代に仏教の伝来により「四つ足もの」を食べることは罪業とされたため、永い間、牛や豚は日本の食膳に上らなかった。...
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「刀自(とじ)」の始まり 刀自とは平安時代には一家の主婦の通称で、戸主(とぬし)の意味であり、刀自は当て字である。平安時代末期頃からは年老いた女性の尊称となった。...
View Article「年玉(としだま)」の始まり
「年玉(としだま)」の始まり 年玉とは年始の贈り物のことで、その始まりについては『舊事本紀』の神武天皇元年の條に「正月庚辰朔、宇摩志満治命、先献天瑞亦竪神盾以齋矣、…蔵天璽瑞寶為天皇鎮祭之」とあるのが始まりと伝えられているが、本来は年頭にその年の吉兆を祝って珠玉などを飾り、人から物をもらって年玉と名付けたものであろう。...
View Article「老人の日(としよりのひ)」の始まり
「老人の日(としよりのひ)」の始まり 敬老の意味を込めて、昭和26年(1951)9月15日から初めて行われるようになった。その日が秋の9月と決められたのは、推古天皇の元年(593)9月に聖徳太子が悲田院を創設されたからであるという。
View Article「年忘(としわすれ)」の始まり
「年忘(としわすれ)」の始まり 昔は歳暮に年忘れと称して、家庭において家族や奉公人などが集まり、またいつも懇意にしている親戚や朋友を呼び寄せて、お互いに一年の労苦を忘れ、これまでの無病息災を祝い合った。これが後世の忘年会の始まりである。...
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