「床屋(とこや)」の始まり
床屋とは髪結床のことをいう。その始まりについて、伝説によると、鎌倉時代に北小路兵衛尉藤原晴基という人が、預かっていた宝剣九王丸を何者かに盗まれたので、その探索のために長男の大内蔵亮元晴は呉服屋になり、次男の兵庫亮元春は染物師に身を替えて、晴基は三男の采女亮政之を伴って諸国を遍歴する旅に出た。そして晴基父子は文永5年(1268)に長門国の赤間関に来て、街道を通る武士のために髪結処を設けて、宝剣の行方に心をくだいたが、志を果たさぬうちに、弘安元年(1278)8月16日に55歳で没してしまった。父の遺志を継いだ三男の政之は相模国鎌倉に来て髪結床を開き、ひたすら宝剣の詮議に努めたが、ついに発見することは出来なかった。しかし世人達はこの政之のことを「床屋様」と呼ぶようになったという。
政之より七代後の北小路藤七郎の時、織田信長の武威を聞いて永禄3年(1560)に鎌倉を去って岐阜に赴いた。そして元亀3年(1572)12月23日の三方原の合戦にさいして、徳川家康が浜松城に帰陣する際に、藤七郎は天龍川の浅瀬を案内してから知遇を受けて、後に家康から江戸に召し出され、京橋の土地を給わり、そこで床屋を開業したのが始まりであるという。
まお、『漫談明治初年』のなかに「昔の方はちょん髷ですから万事がおっくうでした。それに髪結床の亭主といったら見識をもっていて、お客さんに通り一遍のお世辞、へいへいなんかしません。これはお客の方がよく結ってもらおうという考えと、ちょん髷というやつは結い手が代わるとからっきし顔違いがするので滅多に床を換えませんからで、さてちょん髷を習うのには、十年から年季を入れます。はじめ小僧の時にちょん髷の稽古をするには、徳利の口へ髪の毛を結わえておいてクシで形を稽古します。器用不器用もありますが、二三年は徳利がお客さんなんで、剃刀だってそうです。ほうろく(焙烙:素焼きの浅い土鍋)の尻を剃らされ、たいがい穴の開くまで毎日毎日剃らなくちゃ一人前になれません。ほうろくに穴が出来てから自分の膝頭を剃るんですが、下手にやると銭湯へ往ってしみるのしみないのじゃない、眼から火が出ます。膝頭が剃れ、徳利が結えるようになると、そろそろ人間にかかるんですが、はじめは震えていけません。当分は顔だけですが、むかしのは頭を剃るのが実にむずかしい。しじゅう剃るから青々とした髪の硬い人ときたら三番泣かせ。三番とは通例床屋には床師といって髪を結うのと、中床といって顔や頭を剃るのと、三番の小僧とて、じゅんじゅんにお客様を取り扱うのですが、三番の頃がえてしくじります。それも頭でやり損じて脳天へよくスイカを剃いだようにゲッソリやってしまうんですが、なかには「いや金が身に入ったので縁起が良い」と苦い顔をしながら親方をなだめて下さる方もありますが、そうばかりはゆかない。烈火のごとくいきどおり、ひどいめに逢い逢いして修行をつんだものです。」と、昔の床屋の苦労話が載っている。