「実業補習学校(じつぎょうほしゅうがっこう)」の始まり
「実業補習学校(じつぎょうほしゅうがっこう)」の始まり 明治26年(1893)11月22日に実業補習学校規則が創定された。これは当時の文部大臣井上毅が実業教育に関する施設を作り、当時の悪習を救済しようとした事に始まる。 勤労青少年に対して簡単な実業教育と普通教育の補習を施したが、昭和10年(1935)に青年学校に統合された。
View Article「自動体量器(じどうたいりょうき)」の始まり
「自動体量器(じどうたいりょうき)」の始まり 台の上に立って規定の料金を小穴に投ずれば自動的に体重を示す機械の事である。日本においては明治9年(1876)7月頃に、東京上野公園の中に自動体量器が設置され、その料金は1名につき2銭であったと言われている。
View Article「児童図書館(じどうとしょかん)」の始まり
「児童図書館(じどうとしょかん)」の始まり 児童図書館の始まりはイギリスが最も古く、1865年(慶応元年)にバーミンガム図書館で児童に対して館外貸し出しを開始し、さらに6年後に児童図書館を分立して専用の目録を作ったのが始まりである。 日本では明治40年(1907)頃、竹貫佳水が東京で移動図書館を行い、次いで明治41年に日比谷図書館の開館と同時に児童室を設けたのが児童図書館の始まりである。
View Article「支那語辞書(しなごじしょ)」の始まり
「支那語辞書(しなごじしょ)」の始まり 千葉県の広部精という人が明治12・13年頃、日本に支那語の教科書が無く、不便である事から西洋人が著した『約邇集』をそのままとって『亜細亜言語集』を編纂した。これが日本における支那語辞書の始まりである。
View Article「指紋研究(しもんけんきゅう)」の始まり
「指紋研究(しもんけんきゅう)」の始まり 指頭隆線の紋様は人によって異なり、決して同一のものがない。これを学術的に研究したのは1686年(貞享3年)にイタリアのボニア大学のマーセロ・マルピキーが顕微鏡で行ったのが始まりという。...
View Article「社会科教育(しゃかいかきょういく)」の始まり
「社会科教育(しゃかいかきょういく)」の始まり 昭和22年(1946)4月の新学期から、従来の中学校や小学校などで道徳教育の重要な科目であった修身科が、民主主義の教育にふさわしくないとして除外され、それに代わって現実の生活を通して人間生活や社会生活を理解させ、良い社会人となる基礎を養う事を目的とした社会科が新しく設けられた。
View Article「写真印刷(しゃしんいんさつ)」の始まり
「写真印刷(しゃしんいんさつ)」の始まり アメリカのフォルガンが写真を網目版として印刷する事を発明し、1880年(明治13年)3月にニューヨークのデリー・グラフィックに掲載したのが始まりである。 日本では明治20年に陸地測量部技師の堀健吉がイタリアから輸入した網目銅板の研究を重ね、同年6月に東京の博文館から発行された『大家論集』第1号の巻頭に公爵近衛篤麿の肖像を掲載したのが始まりである。...
View Article「写真館(しゃしんかん)」の始まり
「写真館(しゃしんかん)」の始まり 江戸時代末期の慶応3年(1867)に、下岡蓮杖が横浜市弁天町に写真館を開いたのが、日本における営業写真館の始まりである。 開業の最初は「写真を撮影すれば生命が縮まる」とか「三人並んで写すと中の者が死ぬ」などと噂され、お客はほとんど外人であったが、この迷信も次第に消え、この写真館は日を追って門前市をなす盛況ぶりで、たちまちに数万の富を得たと言われている。
View Article「写真機製造(しゃしんきせいぞう)」の始まり
「写真機製造(しゃしんきせいぞう)」の始まり 日本において初めて写真機の製造を行ったのは、明治15年(1882)に六桜社が木製組立て暗箱の製造を開始し、1900年のパリ万国博覧会には浅沼商会が木製暗箱を出品したのが始まりという説と、明治21年(1888)3月に創設された東京の日本乾板製造会社が製造を始めたという説とがある。
View Article「写真材料店(しゃしんざいりょうてん)」の始まり
「写真材料店(しゃしんざいりょうてん)」の始まり 明治4年(1871)3月に、東京日本橋呉服町に薬種商を兼ねて写真材料店を開いた浅沼藤吉が日本における写真材料店の始まりである。彼は明治8・9年頃に王子製紙に国産の写真台紙を作らせ、京都と大阪に支店を設け、明治17年には東京乾板製造会社を麹町平河町に創設した。 また、小西六右衛門も明治時代初期に日本橋本町一丁目に薬種および写真材料店を営んでいる。
View Article「写真術の教授(しゃしんじゅつのきょうじゅ)」の始まり
「写真術の教授(しゃしんじゅつのきょうじゅ)」の始まり 慶応4年(1868)5月17日の『中外新聞』に掲載された広告に、「前第三十四号の因に依て写真術の事を附稟し四方の君子に告げ愛願を乞ふ、是社友某等の志願なり、定日三八 紙写し三枚に付金二分二朱 玻瓈板(はりばん:ガラス板のこと) 小形 金二朱中形 金三朱 大形...
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「写真新聞(しゃしんしんぶん)」の始まり 明治12年(1879)7月5日に全眞社から発刊された『写真新聞』が始まりであるが、これは毎土曜日に発行された極めて幼稚なもので、第十号位で廃刊されたと言われている。...
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