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「歌舞伎(かぶき)」の始まり

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「歌舞伎(かぶき)」の始まり
 歌舞伎の文字が文献に見られたのは『日本後紀』の延暦18(799)7月のくだりに「伊勢齊宮(いせいつきのみや)の新嘗會を停め、ただし歌舞伎をもって九月祭にそなふ」とあるのが始まりである。しかし、後の歌舞伎とは全く意味が異なるものであることは勿論である。
 室町時代末期頃に、出雲大社の巫女であった阿国という女性が、永禄7年(1564)に京都の来て、足利義満の営(宿泊所)において神楽(かぐら)を行い、次いで佐渡に赴き、再び上洛した時は五条橋の東詰や北野社の東に舞台を設けて、塗笠に衣を付けて、紅色の腰簑を纏い、水晶の数珠を首に掛け、笛鼓に拍子を合わせて踊り、これを念仏踊り、花笠踊り、やや踊りとも言う頗る妖美濃あ艶であった。
 また、名古屋山三郎を夫として、三条縄手の東方、祇園町の後ろに舞台を設け、阿国は髪を短く切って折髷に結い、さや巻(鍔のない短い刀)を指して男の装いをし、山三郎は女服を着て桂紐を頭に結び女装をして、豪華淫蕩なる諸将士に招かれて、その眼を楽しませ、これより阿国歌舞伎の名はあらゆる社会に宣伝された。
 かつて父家康の命さえ奉じなかった豪勇の越前中納言結城秀康は、阿国を伏見城に招き、水晶の数珠は見苦しいと言って、自ら具足の上に懸けてあった珊瑚の数珠を与え、阿国の技芸の絶妙さに感涙を催し「天下に幾千万の女あれども一人の女と天下に呼ばれ候はこの女なり。われは天下一人の男となること叶わず。あの女にさへ劣りたるは無念なり」と嘆いたという。いかに阿国の人気が当時の人身を風靡していたかを知ることが出来る。
 また、江戸においては、慶長12(1607)2月20日に、江戸城の本丸と西の丸の間に観世・金春両家の勧進能を行ったそのあとで、京より下った阿国が勧進歌舞伎を催したのが始まりである。
 
イメージ 1
出雲の阿国
画像の出典:ウィキペディア

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