「外科学(げかがく)」の始まり
江戸時代には、内科を「本道」と呼び、外科は「外科」と称していた。しかし、極めて幼稚なもので、本格的に研究がされるようになったのは江戸時代末期からである。
文久元年(1861)にイギリスの医師ウイリスがイギリス公使館の医者として来日し、慶応4年(1868)正月に起こった鳥羽伏見の戦いに際して、イギリス公使パークスの推薦によって薩摩藩の兵士の傷を治療したのが始まりで、後に東京大病院の院長となって日本の外科医術の開拓に努めた。
明治4年(1871)にはドイツのミュルレルが来日して大学東校の教師となり、初めてエスマルヒ駆血法、気管切開術、ギブス、包帯を用いるなど、従来の外科を一新させた。次いで、明治14年6月には、ドイツのスクリーバが招聘されて東京大学医学部の教授となり、外科は新しく開かれ、これより先に海外から帰国していた橋本綱常・佐藤進・高木兼寛たちと共に、日本の外科学の発展に努めた。