「普茶料理(ふちゃりょうり)」の始まり
江戸時代前期の承応3年(1654)7月に、支那から来日した名僧隠元禅師が、いわゆる隠元豆などと共に伝来した精進料理の一種である。主として黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で行われるため、別名を黄檗料理とも呼ばれている。
普茶は、昔は赴茶とも書いたが、これは客僧らが柝(ひょうしぎ)の音を聞いて茶の馳走に赴いたことから起こっている。
その饗応には酒を用いず茶を酒の代用とするのが普通であることから「普茶」という名が生まれた。
なお、『料理通大全』には「普茶というは唐風の調味にて、精進の卓子なり。長崎の禅寺、宇治の黄檗などにて客を迎うるには、かならず普茶料理にて饗応すること常例なり。近ごろ(天保期ころ)上方にて専ら流行し、会席に略してするようになれり」とあり、その次第(順序)は「客四人を一脚と唱えて、客七人なれば卓子台を二脚とし、主人もその中に加わりてともに相伴することなり。元来酒を多く進むる料理にあらざれば、下戸の口にあう調味ながら、大菜小菜のなかに上戸の意に叶う品をも調うべきことなり」とある。
普茶料理
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