「錦袋圓(きんたいえん)」の始まり
江戸時代初期の承応2年(1653)に出羽国北尾勝郡八幡村の了翁僧都(りょうおうそうず)が、肥前興福寺の開山如定禅師の夢のお告げにより「汝の病弱なるを憐(あわれ)んで薬を授けん」と言って霊妙なる処方を授かった時、錦の袋に入れて賜ったので、「錦袋圓(きんたいえん)」と名付けられたものと伝えられている。
そこで了翁僧都は庶民の感化救済のために、寛文5年(1665)に江戸下谷の寛永寺の麓にある不忍池の畔に薬屋を開き、四百四病の妙薬として売り出したところ、その霊効はあたかも神のように、たちまちにして三千両の利潤を挙げることができた。したがって、了翁はこれをもって天和2年(1682)9月に勤学寮を上野に創設して和漢の典籍三万巻を納め、教化・育英の目的とした。
店は東叡山門主の許しを得て「勤学屋」と号したが別名を「金丹屋」とも呼ばれていた。店の主人は勤学寮から養子をもらい、代々大助と称して女気ない家で、表の間口七間をほとんど格子戸で立てきり、格子の隙間から薬と銭を引き替えするという変わった店で評判であった。
なお、錦袋圓は宝丹や仁丹のように、薄荷(ハッカ)などを調味した一種の興奮薬であったらしい。