「厄年(やくどし)」の始まり
日本で厄年と唱えてこれを嫌うことは平安時代から始まった。すなわち『源氏物語』の薄雲の巻に「卅七にぞおわしましける。されどいとわかく、さかりにおわしますさまを、おかしくかなしとみ奉らせ給ふ。つつしませ給ふ御としなるに云々」とあり、また『源平盛衰記』の「丹波少将上洛の事」のくだりに「治承三年(1179)二月二日、宗盛卿、大納言並大将を上表あり、今年卅三に成給ければ重厄の慎とぞ聞えし」とあることによっても、盛んに言われていたことが判る。そして、その理由について『燕石雑志』に「俗説に大約男子は二十五と四十にを厄年とし、女子は十九と三十三を厄年とすといへり。あるひはいふ二は陰の数、五は陽の数なり、陰上にありて陽下にあり。ゆゑに男子その年二十五にいたるものはこれをおそる。また四十二はその数みな陰にぞくして陽なし、かつ四二をよみて死(しに)とし、男子もっともこれをおそる。また十九は、十は陰の数、九は陽の数なり、その陰上にあり陽かえって下にあり。ゆえに女子これをあそる。三十三はその数陽をかさね、かつ事の敗績するを俚語に散々(さんざん)といふ。三三を散々とその訓(よみ)おなじきをもって、もっともこれをおそるといふ」とあるように、実に根拠のないつまらぬ迷信から始まったことである。
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