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Channel: 原始人の見聞
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「燐寸(まっち)」の始まり

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「燐寸(まっち)」の始まり
 1673(延宝元年)にリンが発見され、次いで1827(文政10)にイギリスの薬剤師ジョン・ウォーカーが硫黄とアンチモンの粉末、その他の混ぜ物を木片に付け、紙ヤスリに擦りつけて火を出すことを考え出したのが始まりである。しかし、初めはリンを粗紙の間で擦って、その火を硫黄の付け木に移す方法が考案され、次いで黄リンを用いた種々の発火具がつくられたが、有害であったために各国ではこれを禁じた。ところが1845(弘化2年)に黄リンを熱して作った赤リンが発明されると、害もなく危険性もなかったので1850(嘉永3年)になって最初にドイツが工業化を試み、イギリス・フランスもこれを行ったが失敗におわり、1855(安政2年)にスエーデンにおいて始めて成功した。その方法は燐寸の軸木に可燃薬を塗り、発火剤であるリンは他の薬と共に外箱に塗った物である。
 日本では加賀藩の藩士・清水誠が明治3年(1870)に藩から選抜されてフランスに留学したが、間もなく廃藩置県となったので文部省の留学生となり、明治6年にフランス工芸大学に入り土木工学を学んでいたが、たまたまヨーロッパ漫遊のためにパリに来た吉井友実のすすめで燐寸の必要性を悟り、明治8年に帰国してから東京三田四国町の吉井別邸を仮工場として、燐寸の製造を開始した。それが好評を博したので政府の保護金を承けて明治9年9月には新たに本所柳原町に大工場を建てて、新燧社と名付けた。これが日本における燐寸工場の始まりである。当時は燐寸とは言わず、摺りつけ木、早付け木、アメリカ付け木、唐付け木などと称していた。

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