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Channel: 原始人の見聞
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「生前の死亡広告(せいぜんのしぼうこうこく)」の始まり

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「生前の死亡広告(せいぜんのしぼうこうこく)」の始まり
 平安時代後期に、平敦盛と並んで有名な熊谷直実は、一年前に自分が死亡する年月日を予告して、世人を驚かしたと言われている。
また、江戸時代における西洋画の先駆者・司馬江漢は76歳の文化10(1813)8月に、半紙の二つ切りに自画像入りの辞世を印刷して友人に配付した。
それは「江漢先生老衰して画を需(もとめ)る者ありと雖も描かず、蘭学天文或いは奇器を巧(この)むことも倦()み、啻(ただ)老荘の如きを楽しむ、去年は吉野の花を見それよりして京に滞(とどま)る事一年、今春東都(江戸)に帰り、先頃上方さして出でられしに、相州鎌倉圓覚寺誠拙禅師の弟(てい)となり、遂に大悟して死にけり、萬物生死を同して無物にまた帰る者は、暫く聚(あつま)るの形なり、萬物と共に盡きずして、卓然として朽ちざるものは、後世の名なり、然りと雖も名は千載を過ぎず、それ天地は無始に起こり無終に至る。人小にして天大なり、萬歳をもって一瞬の如し、小慮なる哉、嗚呼」とある。しかし、この奇抜な生前死亡広告の引札を出したことはよいけれども、時日が経つに従って、周囲が寂しくなり、翌年には再び下記のような蘇生通知を友人の梅濱館主人・山嶺主馬宛に送っている。
すなわち「小人、今は老衰、腰痛み歩すること、漸(ようや)く一里をかぎり申し候、先便にて申し上げ候通り、今麻布岡崖の過地へ庵を結び、一人の老婆を遣ひ安居仕候。去年八月死たる申し事を世上に告げければ訪ふ人一人もなし。此間になりては死せざる事をようやく知り、今にては段々と人尋ね申し候。それ故、またまた蘇生して詩文、書画三歳子と交わり亦もとの如し、然し貴客諸侯へは参り申さず、只同癖の者と遊び申し候、生ある者、偶然として居る事能わず、故に其居に安んじ、之を楽しみとす。貴君此度の大役愚俗の為に役せらるるとも、是れ人間の活きて居る道なり、失礼乍ら御悟りなられるべき候、奇なる哉、妙なる哉」と少々言い訳めいて面白い。
明治時代の中頃に現れた樋口一葉が、その日記に「悪口の正太郎」と言い、さらに「此の男かたきに取りていとおもしろし、みかたにつきなば猶さらおかしかるべし」と言っているように、明治文壇に独特の地位を示していた斎藤緑雨が、明治37(1904)4月に肺病のため東京本所横網町の自宅に病臥し、いよいよ死期を悟ったある日、親友の馬場胡蝶に依頼して、口述で自分の死亡広告を書いてもらった。それは
「僕、本月本日を以て目出度く死去候間此の段広告し候なり
   四月十三日              斎藤 賢  」
というもので、この広告は遺言の通り38歳をもって逝去すると同時に、早速都下の新聞に掲載された。

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