「人力車(じんりきしゃ)」の始まり
明治3年(1870)3月22日に、和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が、東京府の許可を受け「御免人力車處」と書いたのぼりを立てて、日本橋の南詰に車を揃えたのが始まりである。その時の宣伝ビラには「御願済人力車御披露(おねがいずみじんりきしゃごひろう)」と題して「萬華開けし聖代(よのなか)に高下貴賤(じょうげきせん)の差別なく、それから再(それ)へ工風を凝らし、有易(うえき)を競ふ其中に、此度(このたび)新規に製造なし御披露申す人力車は、諸事高價(こうまい)の節柄(おりから)なれど、至って賃銭御意安(おんこころやす)く、かつ忽(たちまち)に走の早きは、則車の製作方便、急げば必ず一時五里、風雨を凌(しの)ぐ構(したく)もあり、そが上、一男牽(ひとりひき)なる故、聊(いささ)か人車(くるま)の震(ふる)う事なく、御安座なされて四方の風景、御意任(おんこころまか)せに見晴せべければ、第一鬱氣(うつけ)を散ぜしめ、車器(うつわ)は高きにあらざれば譬(たと)へ老少女子たりとも、怪我過ちの憂いなし、必ず諸君試みに、一度人車乗召給はば、猶再々の思召に極めて叶ひ申すになん」と洒落たものであった。
当初は荷車の上に四本の柱を立て、これに椅子を備え付け、軽く小さな屋根を付けた極めて簡単なものであったが、次第に改良されて一人乗り、二人乗り、三人乗り、四人乗りとなり、車夫も一人から五人牽きまで現れたが、なかでも二人乗りは相乗りとも言い、花柳の巷では無くてはならないものになった。
明治8年頃からは上海や香港にまで多量に輸出され、明治16年には国内の人力車だけでも16万6千余台という数になっている。しかし、大正12年9月の関東大震災以降は自動車に駆逐されていった。