「白旗で降参(しろはたでこうさん)」の始まり
景行天皇の12年(87)7月に、築紫(つくし:九州)の熊襲(くまそ)が叛乱を起こしたので、天皇は親征のために、8月に大和を出発して9月に周防国婆麼(さば)に到着され、ここから武諸木(たけもろき)たちを派遣して、南九州の情勢を視察させた。その時、九州で大きな勢威をふるっていた魁帥(かいすい)・神夏磯媛(かむなつそひめ)という名前だけは優しい賊将が、天皇の使者が渡海した事を聞き、磯津山の賢木を取り、その上枝には八握剣(やつかのつるぎ)、中枝には八咫鏡(やたのかがみ)を、下枝には八尺瓊(やさかにのたま)を掛け、また素幡(しろはた)を船の軸に立て、その部族を率いて皇軍に降伏したと『日本書紀』に書かれており、これが白旗を降参の標に用いた始まりである。