「歌舞伎女優(かぶきじょゆう)」の始まり
出雲の阿国はともかくとして、江戸時代を通じて歌舞伎女優の役は、多く男優の女形(おやま)が演じてきた。
明治時代にいたり、市川九女八(くめはち:成田屋、別名守住月華、初名岩井粂八)の出現によって歌舞伎女優の新しい方面を開くに到った。久女八は本名を守住けいと称して、東京神田豊島町の横田彦八の娘に生まれ、7歳の時に板東三枝八の門に入って舞踊を学び、13歳の時に板東桂八の名をもらって踊師匠となった。次いで両国のおででこ芝居の岩井粂壽の一座に加入して初舞台を踏み、明治6年(1873)11月には八代岩井半四郎の門弟となって四谷の桐座、下谷佐竹原の浄瑠璃座、麻布森元の開盛座などに出演し、明治17年より本所の壽座を根城として活躍し、粂八の名声はますます喧伝された。次いで福地楼痴の世話で九代目市川団十郎の門に入って升之丞と改めたが、間もなく勧進帳を演じて破門された。その後、元の粂八の名で各座に出勤し、世に女團州と称せられ、明治時代における随一の女役者として名高く、おおむね団十郎の当たり芸を得意としていたが、特に所作ごとに妙を得ていた。後に詫びが許されて再び団十郎の門に戻っている。
市川九女八
画像の出典:松岡正剛の千夜千冊