「本草学(ほんぞうがく)」の始まり
支那で起こった一種の薬物学で、日本に伝来してからは自然科学としての博物学となって大いに発達した。その起こりは古く、孝謙天皇の天平勝宝6年(754)1月に来日して帰化した唐僧・鑑真は深く本草に精通し、盲目ではあったが、鼻ではっきりと薬草と毒草を判別したという。
室町時代末期の天文8年(1539)10月に、吉田宗桂が策彦和尚に従って明に赴き、本草学を学んでこれを伝え、江戸時代に入っては慶長7年(1602)5月に林羅山が長崎で学び、慶長12年には明の商船が舶載していた李時珍の著書『本草綱目』を携えて江戸に帰り、この本を幕府に献上してから世にひろまるようになり、これが本草学の発達の基になった。
寛文6年(1666)には中村齋が『訓蒙図彙・二十一巻』を著して、動植物約700種を図示し、これに和漢名の対訳をつけたのを始め、寛文11年には向井玄升が『庖厨備用大和本草・十三巻』を作り、少し遅れて貝原益軒が『本草綱目和名目録・花譜・菜譜・日本訳名・大和本草』を著した。
次いで元禄期には、本草学界の大家であった稲生若水が『庶物類纂・一千巻』を著した。従来の学者の多くは、その識見を書物の上に論ずるだけで、実験によって徴することがなかった。しかし、稲生若水は実物について研究したり、穿鑿につとめて物産の形状・効能を明らかにし、これにより本草学はただ薬物の良毒を分別するだけではなく、ひろく動植物の効用や来歴を極めて物産学となり、日本における本草学の基礎がはっきりと確立された。