「西洋眼科(せいようがんか)」の始まり
室町時代から眼科を専門に、代々業を継いできた安芸国の土生(はぶ)玄碩は、文化5年(1808)3月に江戸に出て、精妙な治療で大いに名声を上げ、文化7年7月には幕府の侍医になった。
次いで、文政9年(1826)4月に蘭方医のシーボルトが江戸の来た時、土生(はぶ)玄碩はシーボルトを尋ねて西洋の眼科学について質問し、白内障などの手術を行う時、瞳孔散大薬を用いればすこぶる効果があることを知り、将軍から拝領した葵紋服と交換してその薬方を受けたという。日本における白内障の手術はこれによって一段の進歩を遂げた。
文久2年(1862)に長崎に来た蘭方医ボードインが、新しく斜眼法・直像法・倒像法、ブルキンジ・サンソン氏像にて角膜や水晶体の前後面を調べる方法、ルーペで睫毛(まつげ)の乱生を調べる方法を伝え、これによって西洋眼科は大いに発達した。