「女剣劇(おんなけんげき)」の始まり
昭和6年(1931)の春に、梶原華嬢という女役者が、浅草で常時剣劇俳優として名声の高かった澤田正二郎の向こうを張って、女ながらに剣をとって舞台で暴れ回ったのが始まりである。
次いで、昭和8年には無声映画時代から毒婦莫通女の当たり役で「エロの姐御」の凄名をとっていた伏見直江が公園劇場で女国定を演じて評判になり、また、原ユリ子、初代大江美智子、不二洋子、富士峰子らが相次いで現れ、12・13年頃は女剣劇の全盛期を造り上げた。しかしこれらは、いずれも単なる剣劇の内容に終始していた。それに反して大阪のカフェーで女給をしていた伏見澄子が芸のまずさを隠すために、チラリホラリと肉体を見せる業を考え出したのが、エロ剣劇の始まりである。浅草六区の興業街で見られたストリップと並んで女剣劇の看板を揚げ、浅草で妖艶を競った女剣劇の華には二代目大江美智子、富士峰子等の正統派と、大利根淳子、浅香光代らの新興エロ派に分かれた。