「愛国婦人会(あいこくふじんかい)」の始まり
肥前国唐津の人で奥村五百子が、戦争に出征した兵士の家族を慰安し、救済する事を目的として創立したものである。
明治34年2月に初めて愛国婦人会を組織し、その会長に公爵岩倉久子を推戴したのが始まりである。
太平洋戦争においても戦争の拡大につれて遠くは満州・支那事変の頃から、内外地に日本婦人で大日本愛国婦人会が組織され、農村や都会の女子青年団、工場会社の女子従業員、家庭の主婦はもちろんの事、花柳界の姐さん達までが、揃いの白襷に黒字で染め抜いた大日本愛国婦人会の標示を身に付けて、早朝から駅頭や街辻にたって出兵兵士の歓送迎に努めた。
やわらかい足裏に歩調を取って広場を行進したり、防空頭巾にもんぺのいでたちで防空消火の訓練に務めたり、持ち馴れぬ手に竹槍を握ったり、救急法を習ったりしていたのである。