「藁蒲団(わらぶとん)」の始まり
江戸時代中期に天徳寺という藁蒲団があった。これは江戸の芝の西久保にあった天徳寺の門前で売っていたから、その名前が付いたのである。その藁蒲団というのは、よく打った藁の紙衾(かみふすま)の中に綿の代わりに入れたもので、武家の奴僕、すなわち仲間部屋とか下層階級の間で、これが用いられていた。したがって、寛政年間の頃まで江戸の街中を秋口から天徳寺売りが歩き始めたという。ただ困った事に、行燈による大火の原因になった事で、安永元年(1772)に刊行された百亀作の『聞き上手』に「この上もない貧乏人の所へ盗人入りて、そこら探して見れど何にも無し、亭主は天徳寺を引っかぶり、知らぬ顔で寝ていれば、「ええ、いまいましい、このような何もない家も、またあるまい」と小言を言う。亭主はあまりの可笑しさにくすくすと笑えば、「いや、笑いごっちゃない」とある。
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