「幽霊(ゆうれい)」の始まり(3)
尾上松緑の養子となった三代目菊五郎のお化けと幽霊との区別について、三田村鳶魚の『江戸の風俗』のなかに「お化けは心易く、幽霊は心苦しいようにするものだ。さうして幽霊が出てからのこわさといふものは、死ぬ時の様子をよく見物の心に染み込ませて置かないと、幽霊が出ただけではこわくない。この死方を十分に怨みの残るやうに見せて置くことが大切である」と幽霊の秘伝を説いている。さらに「これは江戸末の幽霊好みの型にはまったことで、精神の上からも、肉体の上からも、苦しめられ、虐げられたものでなくてはなりません。さういふ心持ちの方を菊五郎は幽霊といひ、その他は引くるめて、すべてお化けといってゐる。さういふ心持ちで菊五郎のいった言葉を考えて見ますと、江戸の末にどんな風の怪談が好まれたかといふこともよくわかります。苛酷な、残忍なことがどうしても幽霊を出す前になくてはならない、累(かさね:怪談の主人公で百姓の妻)やお岩のやうなもの。その境遇がおのれに如何にも気の毒なことであります。その死に至っては又極めて無慈悲なむごい、つらいものである。それだけではまだ足りないから、変相させて、今まで美人であったものが、見るも恐ろしいやうに変わって行く、といふ景物まで添へてゐる。これが松緑親子の幽霊を仕上げた肝腎な条件でありました」とある。したがって、舞台の道具や仕掛物も次第に進化したが、それらは初代の長谷川勘兵衛の考案によるものが多かった。