Quantcast
Channel: 原始人の見聞
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1929

「見合(みあい)」の始まり

$
0
0
「見合(みあい)」の始まり
 男女両方の親たちがどれほど気に入っても、結婚は当人同士の深い理解が無くては決して円満に収まるものではない。そこで様々な方法で見合をするということが生まれた。
ところが武家社会では主君や親の命令による強制的な結婚が多かったため、庶民階級から見合をする事が始まった。それも上方が最も早く、江戸時代の元禄期以前から盛んに行われていたらしいが、江戸はそれよりも遅れている。
したがって、町人の夫婦は情愛で終始しており、この点、義理で押し通した武士よりもどんなに幸福であるか判らなかったようである。江戸で武士が公然と見合をするようになったのは天保年間(18301844)からだという。そのことについて柳沢里恭は『獨寝』のなかに「そうじて惚れた女房もつは神代のならはし、何ぞや穴なる狢(むじな)の値段するとやらんにて、面(つら)をも見ず心にも知らず、滅多無性に女房を定むるゆえ、三下り半の種、誰か蒔くは、さりとてまかせぬ世の中、恨めしきことなり、是れ程をかしきことはあらじ」と大名の結婚を嘲笑している。
七つ八つより帳内深くに住んで、両親や乳母意外に他の男を隠れても見ることなく、あたかも温室の花のように育てられた武門の箱入り娘が出入り坊主の陰聞のみによって結婚したために、姦通、欠落、不縁などが多かったのも、その基は見合もしないで無理矢理に押しつけ結婚をさせた結果が生んだ悲劇なのである。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1929

Trending Articles