「纏(まとい)」の始まり
纏は馬幟(うまじるし)から変化したものと言われている。これが消防組の標(しるし)となったのは、江戸時代中期の享保4年(1719)に、大岡越前守忠相が江戸町奉行であった時に初めて制定したものである。
その頃の纏は一般に銀箔または金箔を施し、享保5年8月には町火消しの纏にその組々の方額をしるした七尺の吹き流しを下げ、享保15年正月にこれをとめて馬簾(ばれん)となり、各纏の標は何れも将棋の駒であった。その時、神田竪大工町の石田治郎右衛門という人が、纏の一手製作を命ぜられたという。
後の寛政3年(1791)8月になって纏の銀箔を禁じ、白塗りとなった。