「人返(ひとがえし)」の始まり
江戸時代に、世の中が泰平になるにつれて農民が都市に出てくる事が多くなり、都市の人口は急速に膨張した。これは主として農村の貢納に依存していた封建経済において、根底を揺るがす一大危機を意味した。幕府をはじめ諸藩においても厳しく、農民が都市に転入してくることを制限し、農業の奨励にひたすら努力したものである。たとえ江戸や大坂などの大都市に集中した農民でも、努めてこれを帰郷させるように力を尽くした。これを「人返」と言ったのである。
江戸幕府は寛永20年(1643)8月に、「耕作を怠り一村の厄介となり、しかもみだりに他所へいずる百姓あらば、急度(きっと:必ず)曲事(きょくじ:処罰)に申しつくべし」と郷村触書(ふれがき)を出している。しかし、さらに農民が都市に移り住む者が次第に多くなり、そのために元禄年間には、農村人口の減少、田畑の荒廃さえ生じたので、荻生徂徠もその著書『太平策』の中に人返法を盛んにすすめている。
安永6年(1777)5月には、さらに他国に出稼ぎする奉公人の人員およびその年期を制限したが、間もなく天明の飢饉があって、陸奥・常陸・下野の三国の人数が減少したので、天明8年(1788)12月には三ヶ国の他国への出稼ぎを禁じ、もし耕作に差し障りが生じた場合は、代官地頭の添状を受けて江戸に出府することを許した。
次いで寛政2年(1790)に、老中松平定信は一般に令して旧里帰農の政策をたてて、江戸に出稼ぎした者には帰省するように奨励したが、充分な効果を挙げることは出来なかった。
それから後、老中水野忠邦が天保の改革を行うに当たって、積極的に都市の人口の減少を図ろうとして、厳重な人別改めを行い、いわゆる人返法を採り上げた。すなわち天保10年(1843)2月の令によると「今よりのち在方のもののあらたに江戸人別に加わることを禁じ、またすでに江戸に転入したものでも永年にわたって営業をなし、妻子眷属(けんぞく:親族)を有するもののほかは帰郷せしめ、どうじに庶民の入府するものにたいしては、その年限をさだめ、代官、領主、地頭役場にて聞き届け、村役人の連印および役人の奥書印形ある免許状をたずさえさせ、期限になると、かならず帰郷させる」ことにした。そのほか僧侶、神主、陰陽師、廻国修行、六十六部(巡礼)などの取締りをも厳重にし、これによって農民の移住や農村の荒廃を救い、合わせて都市人口の集中を防ごうとしたものである。