「日傘(ひがさ)」の始まり
『事物起源』によれば、支那の後魏時代に始まるという。日本でも古くから用いられていたが、高貴な人に限られていた。その後、竹を骨として紙を貼る「からかさ」が作られ、江戸時代前期の天和年間に小児に用い始め、享保年間には儒医が使い、宝暦・明和年間には婦女子の専有となった。そのことについて『骨董集』に「今の世、いやしき者の人にほこるに、お乳母日傘にてそだちたる者ぞといふ諺あり、むかしは乳母をめしつかうほどのしかるべき者の子には日傘をさしかけさせたるゆゑにさはいふなり。そのからかさは、丹青(たんせい:赤と青色の絵の具)もてさまざまの絵をかきしなり。ことに菱川(師宣)が絵におほく見えて、延宝・天和・貞享の頃もっぱらもちひたり。これ近き世までもありしが、今はたへて、諺にのみのこれり」とある。また、『近世女風俗考』には「日から傘といへるものは、むかし小児の外さしたる事なきもの也。正徳・享保の頃より儒者または医師など用ひしものとかや。女の専用となりしは、宝暦あるひは明和のころより始まる」とあり、さらに『武野俗談』には「元文のはじめ、三五七(さごしち)組のえもん、千歳(せんざい)組のお照、大すけ組のお縁の三人、名題の容色にて髪を第一とし、結構なる櫛笄を用ゐ、銀の簪(かんざし)などは渠等より時花(はや)り出でたり。暑中菅笠を被りては、髪を損ずるとて三人言合はせ、柄を黒塗にし、風流なる紋を書かせたる日傘をさしたり。是は唐土(もろこし)の大王は、青羅(せいら)の傘蓋(さんがい)とて青き薄物にて傘を貼らせ、さしかけさするといふ。通俗漢書の物語を聞きはつりて、さし始めへるより、世上一統はやり出だし、女中は元より男子にいたるまで、青紙の傘をさしけること誠にをかしけれ云々」とある。
このように、武士も平民も日傘を一様に差すようになったのは、江戸時代後期の文政9年(1826)の夏からだという。
お乳母日傘 『骨董集』より