「廃刀令(はいとうれい)」の始まり
古くから刀は武士の魂とされ、両刀を帯びるが為に農工商の上に位し、永く封建時代における特権を持ち、優越を誇っていた。その命にも等しい刀を野蛮な遺風として取り上げられると言うことは、武士にとっては眞に青天の霹靂というほどの重大な事件であった。
すなわち、明治2年(1869)5月に、後に文部大臣になった森有禮が率先して「官吏兵隊のほか帯刀を廃するは随意たるべきこと、官吏と雖も脇差を廃するは随意たるべきこと」という廃刀の建議を集議院(明治2年に設置された機関で、衆議院とは異なる)で行った時は、いずれも烈火のごとく激怒して「廃刀などとは武士の魂を取り去るようなもので、まことに怪しからぬ、西洋夷狄(いてき)の國ならばいざ知らず、いやしくも神州正氣の國において、かかるうわ言をならべるとは、まったく武士道の神聖をけがすものだ」とばかりに極言し、なかには森を斬らんばかりの剣幕で殺気紛々たるありさまであったが、森は従容自若としてこれを論駁(ろんばく)し、ついにその主張を貫徹した。そして、明治3年12月24日に庶民が両刀を帯びることを禁じ、次いで明治4年8月9日には「四民(士農工商)の斬髪脱刀勝手たるべし」と発令され、さらに、明治9年3月28日には全ての帯刀を禁じてしまった。