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Channel: 原始人の見聞
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「妻敵討(つまかたきうち)」の始まり

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「妻敵討(つまかたきうち)」の始まり
 姦通した男女が手を携えて逐電した際に、本夫がその行方を捜し出して、見付け次第斬り殺すことをいう。
 これは室町時代末期には既に行われていたと思われ『親俊日記』の天文8年(1539)11月8日のところに、道運という人の中間をしていた総次郎が妻敵討をしたとあり、次いで『言継卿記』の元亀2年(1571)正月25日のところに「聖光坊というものが室町の将軍の御所内で妻敵討をくわだてたが返り討ちにあい、男女は捕らえられた」とある。
 さらに江戸時代になってから盛んに行われたらしく、享保5年(1720)8月に、近松門左衛門の作った『槍権三重帷子(かさねかたびら)』によると、出雲国松江藩の茶道役であった正井完味が、同藩の近習中小姓をしていた池田軍次と不義をした妻とよを、大坂の高麗橋の上で討ち取った事件を脚色したものであり、また宝永4年(1707)2月に興行された『堀川波の鼓』は因幡国鳥取藩の台所役人であった大蔵彦八郎が、その妻のお種と密通した宮井伝右衛門を京都の堀川で妻敵討したものを脚色したものである。しかし、当時は専ら主君に奉公すべき武士が、不義者の成敗のために目の色を変えて奔走することは、まことにつまらない愚劣な行いとして、密かに侮蔑視されたという。

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