「西洋人との結婚(せいようじんとのけっこん)」の始まり
慶長5年(1600)2月に、豊後国に漂着し、徳川家康の信任を受けて外交顧問となり、相模国三浦郡で二百二十石を与えられ、ついに帰化して名前も三浦按針と改めたイギリス人ウイリアム・アダムスは、馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘と結婚して、ジョセフという男子とスザンナという女子をもうけたと言われ、明確ではないが、おそらくこれが西洋人と日本人女性とが結婚した始まりと思われる。
外国との往来が頻繁であった長崎では、相当多くの日本人女性が西洋人と結婚したらしく、三代将軍家光が寛永13年(1636)5月に「海外密航・帰国者の処罰規則」を制定すると、彼らは離別して帰国せねばならず、その哀れな様子について『長崎夜話草』に「寛永十三年丙子(ひのえね)の年かとよ、蛮人の子孫、長崎に在りしを、公(おおやけ)より吟味ありて、二百八十七人、阿媽港(あまこう:マカオ)に遠流(おんる)せらる、血脈、父を本(もと)として母にはかまひなし、たとへば、母日本の種子(たね)にて、父蛮人の血脈なれば勿論なり、父日本にて、母蛮人の血脈なれば、すなはち母のみつかわして子は留む、あるひは、父放されて子は留り、あるひは子放されて母とどまり、母放されて子留まる、兄行きて弟留まり、弟行きて兄留まる、夫婦相分かれ、姉妹相離るるありさま、町々戸々の悲しみ、いかなるむくつけきあら夷(えびす)も、袖しぼらぬはなかりし、かりそめの旅路の分れをだに、石となりしなげきもあるに、今をかぎりの別れ路、よもすがら手を取りかわし、顔をさしあてて物も言い合えず、まして船に引乗せらるるときは、夢かうつつか、我か人かと、そぞろごとに聞こえて中々たえも果てなんとするあれど、命だにあらば又公の許しもあらんも定めなき世を頼みてよと、人々のいさむるに、又夢路をたどる心地にて、舟そこに伏ししずみて、折から風だにつれなき追手にて島かくれ行きしこそ哀れなりし世なめりし」とあり、悲惨な状況が描かれている。
明治6年(1873)3月14日に、外国人との婚姻が許され、次いで同年7月に東京麹町山元町の北川静子という女性が、初めて神田共立学校の雇い教師であったイギリス人フリームと結婚したのが、公然と外人と縁組みした始まりである。