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Channel: 原始人の見聞
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「掏摸(すり)」の始まり

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「掏摸(すり)」の始まり
 関東ではスリと呼び、関西ではチボと言い、また巾着切の異名もある。その語源については諸説があって明確ではないが、『俚言集覧』に「語学篇に須利(すり)と書いて梵語(ぼんご)なりと註したれど出所詳(つまびらか)ならず、彼がすり違ひつつ行くさまにて物をとらんとするなればやがてすりといふなり」といっている。
 では、今のようなスリが何時ごろからいたかといえば、江戸時代の寛文4年(1664)の『老人雑話』に「信長、城を武衞陣に築き公方をすへて慶賀の能あり、老人も四歳ばかりにて乳母に抱かれて見物す、其日信長は小鼓を打たれしなり、長岡三齋(忠興)は老人に歳長じ六歳ばかりににて猩々を一番舞われし、その時帰りに門外にて盗人に後の紐を切られしことを覚へたりと語れり、其頃は盗人、刀、かうがい、小刀などを抜き取ることを得たり、是故に盗を「ぬき」と云ひし、今の「すり」といふが如し」と書かれており、これによれば永禄の頃は「ぬき」と言ったことが判る。
 次いで、桃山時代の『言継卿記』の文禄三年(1594)八月二十四日の條に「盗人スリ十人、また一人者(石川五右衛門のこと)釜にて煎らる」と書いてある。
 江戸時代に入り、安永・天明期には巾着切が多く横行していたらしく、天明六年(1786)の『後見草』に「盗賊は古今に通ぜし大罪なるに、巾着切といへるすつぽども、白昼に路行く人の後に廻り、うつけ男の着したる羽織の下へ忍び寄り、己が頭に之をかぶり腰に下げたる巾着胴乱の類、盗み取りしたり顔して連立ゆく、また奪いがたきと見る時は己が友達と云ひかたらい、いさかゐに事寄せ或いは打ち合いたたき合い、その虛にのり何にてもあれ奪取っては逃出し、往来の人と顔を見合せ笑を含み別れ行く其ありさまの傍若無人外に何かは侍るべき、好事の者ども言語らひ今日又すり共の物盗(ものぬすみ)さま見ばやとて茶店なんどに立やすらい物見侍も憚(はばか)らず、其事のげんぜんたる如何にやにやと寄り集まって大息する人多かりき、かくばかりなる僻事(ひがごと)を卑官どもの見聞きながら知らぬ顔にて打過ぬるは怪しからぬ事ども也」とあり、いかに江戸時代末期とはいえ、幕吏の綱紀の乱れ方は驚くばかりである。
 有名なオランダ医学者の杉田玄白が著した『形影夜話』によると、昔、ある大盗人がある日のこと春雨が降り続き、大変暇であったので何かおかしいものが欲しくなり、手下に向かって、ある店に良い魚があるから盗んでこいと命じた。そこで何人かが出かけていったが番人の目が光っており、誰も盗むことが出来ず戻ってきた。ところが、ひとりの小賊が「では俺が取ってくる」と出て行き、間もなく大きな鮮魚を下げて戻ってきた。親分がこれを見て「あの店の手前にあった股引か」と言うと「そうだ」と答えた。それはよそにあった股引をスリ取って売り払い、その金で魚を買い求めてきたという。

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