「殉死(じゅんし)」の始まり
主君の死にあたり、その臣下の者が跡を追い殉ずることで、この弊風は上古から行われていた。文献に見られるのは『日本書紀』の垂仁天皇の28年10月5日の條に「皇弟倭彦命(やまとひこのみこと)が薨ぜられ、ついでこれを身狭桃花井鳥坂(むさのつつきさか)に葬ったとき、その近習をあつめて悉く陸域に生埋(いきうめ)したが、数日にして死せず昼夜泣吟し、ついに死して腐爛(ふらん)するや犬鴉あつまりて喰らう、天皇これを見聞あらせられ、いたく悲傷したまい、群卿に詔して曰く「生きて愛せられ死して殉とたる。また惨(いた)ましからずや、古の遺風と雖(いえど)も良にあらざれば何んぞ遵(したが)うを得んや」と之を禁ぜらる」とあるのが初見である。