「細君(さいくん)」の始まり
もと支那では諸侯の夫人を「細君」と呼んでいたが、その後、ごく軽い敬意を持って同輩以下の妻をさす言葉になった。
昔、漢の武帝に仕えて侍従職になった東方朔(とうほうさく)という人がいた。その当時は、夏の暑い日に、天子から朝臣たちに肉を賜う習慣があった。ところが、その年はなぜか肉が下されるのが大変遅かった。気の短い東方朔はしびれをきらし、ついに無断で肉を切り取って家に持ち帰った。その事が武帝の耳に入り、呼び出されて、その無礼をとがめられたが、東方朔は少しも悪びれず、落ち着き払って「賜(たまもの)を受けて詔(みことのり)をまたず、なんぞ礼まきや、剣を抜いて肉を切る、なんぞ壮(さか)んなるや、これを切りて多からざる、なんぞ廉(れん)なるや、かえりてこれを細君(東方朔の妻の名前)におくるまたなんぞ仁なるや」と涼しい顔で言上した。その強心臓には、さすがの武帝も思わず吹き出して大笑いしたという。