「洋靴工場(くつこうば)」の始まり
江戸時代末期の慶応3年(1867)の春に、仙台藩の高橋是清が富田鉄之助、高木三郎、勝小六とともに洋行した時の話に「白金巾の綿ゴロ(gorofgrein:梳毛織物)でチョッキとズボンをこしらえ、絹ゴロで上衣(うわぎ)を作ったが、その上衣が面白い、子供のくせにフロックコートだ、帽子はフランス形を板紙でこしらえ、それに白い布片で後の方へ日除を垂らしたものであった。また靴は買おうとしても、まだどこにも靴屋がなかった時代であるから実に困った。余儀なく古靴を探したが、横浜中さがしても子供の足に合うものとては一つもない、皆んなイギリス兵のはいた大きなもの許(ばかり)であった、方々を探して、やっとこれなら足に合いそうなものと探し当てたのは婦人用の古靴で、それも革じゃなくって絹シュス(繻子)で作ったものであった」とあるほど、当時は珍しかったが、明治維新後は陸海軍用の需要が盛んになるに従って次第に発達した。しかし、原料製品がほとんど海外からの輸入品であったので、兵部省は有事の際の不便さを考慮して、明治3年(1870)3月15日に、西勝村三に命じて、東京築地の入舟町に伊勢勝製靴工場を起こさせた。これが日本における製靴工場の始まりである。