「蚊帳(かや)」の始まり
蚊幌、小碧城、蚊子幬、蚊屋帷などと称する。文献に見えるのは『日本書紀』の応神天皇四十一年(310)二月の條に「阿知使主等自レ呉至二筑紫一、(中略)即献二于大鷦鷯尊一、是女人等之後今呉衣縫、蚊屋衣縫是也」(阿知使主等呉より筑紫にいたり、すなわち大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇))に献ずる、これ女人等の後今呉衣縫い、蚊屋衣縫うこれなり)とあるのが始まりである。
また、『嬉遊笑覧』には「蚊屋の名は大神宮儀式帳、延喜式などには見えたれど、むかしは下さまにはもちひざりしなるべし」とあり、平安時代の頃から上流社会においてだけ用いられたが、当時の蚊帳は紐で吊るものではなく棹(さお)で支えたものである。それが一般的に用いられるようになったのは室町時代以降といわれ、山崎美成の『三養雑記』に「蚊帳といふもの、今は家毎になくてかなはぬ物なれど、古書には、蚊やり火こそ和歌にもよめ、蚊帳の名はわずかに大神宮儀式帳、延喜式にみえたり、また春日験記絵詞に、白き蚊帳をかけたるかたをゑがけり、近くは吉田鈴鹿家記、宝徳元年(1449)四月九日、花園殿より蚊帳参るとあるよし、おもふに、室町家の頃より、今の如く夏月は、かならず蚊帳をさぐることと見えたり、おほ方、紐にてつることはなくて、棹にてかくること、そのかみの礼家の記録に見えたり、それも日毎にはづしたるにはあらで、吉日をゑらびてつりそめ、また吉日にをさむることなり、今も辺鄙(へんぴ)には棹にてつるならはしの存(のこ)れる地もありしとかや」とある。
なお、江戸時代の俳人として有名な加賀の千代女の「起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さかな」は、広く人々に膾炙(かいしゃ:知れ渡っていること)されているが、これは千代女がまだ生まれていない9年前の元禄7年(1694)に、京都の井筒屋から出版された長崎の俳人泥足の撰による『其便(そのたより)』の句集に載っており、作者は浮橋という遊女であった。それを知らない川柳子が「お千代さん蚊帳が広けりゃ入ろうか」と揶揄(やゆ)している。