「軽業(かるわざ)」の始まり
高絙(つなわたり)、籠抜(かごぬけ)、曲馬など、身を軽く動かして危険な各種の芸を演ずるものを言う。「軽業」の始まりについては『遊芸起源』によると「軽業はかの田楽、猿楽などの余波にして貞享、元禄のころより江戸におこなはれたるものなるべし。むかしある軽業師が甲州に来たり、閉じたる門の上ををどりこえること自由なりければ、こころみのため門内に蒺藜(いばら)を敷きおいて外より踊らするに、足いまだ地に着かざるにそのまま門外へをどりかへる。武田信玄これをみて後難を慮(おもんばか)り、やがてこの者を殺さしめたりといふ話あり。しかれば往昔より此芸を演ずるもの希(まれ)にはありしものとおぼゆ」とある。
次いで、江戸時代に入って、軽業を以て世を渡る者がようやく現れ、延宝期ころ、江戸堺町の見世物小芝居で籠抜を演じて有名だった龍馬琴之助は、江戸における軽業の元祖と称されている。
その頃、京阪では長崎から来た小鷹和泉と唐崎龍之助とが、大坂の道頓堀や京都の四条河原で、籠抜や輪抜の妙技を見せて人気を集めた。
正徳年間に出版された『和漢三才図会』の中に軽業の様子が書いてある「延宝年中(1673~1681)長崎より来る小鷹和泉、唐崎龍之助といふ者あり。二人はじめて大坂に於いてこの技をなす。見るもの驚感せずといふことなし。竹籠口の径(さしわた)し尺半(約45.5㎝)、長さ七八尺(212~242㎝)をもちゐ、檈(せん:円い机)の上に横たふ。高さ五六尺(15.2~18.2㎝)、しかして菅笠を被り、走跳して籠のなかをくぐり出て地に立つ。其笠は籠の口より大なること二寸(約6㎝)あまり。また輪を空に釣り、輪のなかに蝋燭を燃やし、人その輪をくぐりて火滅せず。あるひは刀鋒を輪のなかにたて、その輪ふらつく、さだまるを待って輪と鋒とのあひだをくぐる。あるひは輪五六個をもって空に懸く。相去ること各尺ばかり、高低ひとしからず、形蟠龍のごとくにして、走跳してことごとくこれを抜く」とある。
また『天和笑委集』には龍馬琴之助の精妙なことが書かれており「わけて盡(つく)せる軽業には、張良がねやの術、千里一刎虎の子わたし、鴨の入道水車、鴫(しぎ)の羽がえし、鵲(かささぎ)のわたせる橋、一来法師が兎はね、猿猴の梢づたい、猿の岩飛び、鷲の伸し羽、山雀の逆こもり、天狗の飛行」などの曲目を上げている。これが軽業に曲名を付けた始まりである。
次いで、宝暦期の頃には大いに流行し、平賀源内の『放屁論』の中に「なかにも險竿(かるわざ)の大あたり、小桜松江が笑顔には、弘法大師筆をすて、韓退之涎(よだれ)をながす。無三飛(むさんとび)新蔵が體(体)は龍骨車のめぐるがごとく、早飛梅之丞が一本綱は五體を天へ釣(つる)すかとうたがふ、これこそ珍しともいふべけれ」とあることから知ることが出来る。
軽業「籠脱」
画像の出典:見世物興行年表