「言名付(いいなづけ)」の話
言名付と言う言葉がいつ頃起こったかは、はっきりしない。ただ、その起こりは、男子が幼い間は童名(わらべな)とか幼名と呼んでいて、元服すると実名を付けたと同じように、少女の間は幼姫君(いとひめぎみ)とか中姫君(なかひめぎみ)とか大姫君(おおひめぎみ)などと言い、年頃になって婚約が決まると本名を撰んで名を付ける習俗(ならわし)から始まったと考えられる。
左大臣藤原頼長の書いた『臺記』の別記の久安4年(1148)の條(くだり)に、申名付(もうしなづけ)と言う言葉が見られ、言名付は申名付とも言ったことは『太平記』の一の宮(後醍醐天皇の皇子尊良親王)が今出川右大臣公顕の娘を見初め給うた條によっても明らかである。すなわち、この姫君は徳大寺左大将へ申名付ながら、皇太后に宮仕えして、御匣(みくしげ:上臈女房)となっていた。尊良親王は姫を切に思(おぼ)しめされていたが、式部少輔英房という儒者に師事して『貞観政要』の講義を聞かれた中で、昔唐の太宗が鄭仁基の娘を后にしたいと思ったところ、魏徴が諫めて、この娘はすでに陸氏と婚約が決まっているからと申したので、太宗はその諫めを容れて、宮中に召すことを止めたという條を聞かれ、既に申名付である仲を割いて、人の心を破ることは、いにしえにも恥ずかしく、世の思惑もどうかと後悔し、ついに言葉にも出さなかったというのがそれである。
江戸時代には結婚しなくても、言名付の約束をした以上は、もし他の男をこしらえたりすると、姦通罪で処刑されたもので、『傾城恋飛脚』の文句のところにも「祝言せいでも言いなづけしたからは、中兵衛という男のある身、よふ密夫(まおとこ)しおったな」とあり、その婚約の男が死去した際は、貞操を守ってどこへも嫁入りすることなく、いわゆる「行かず後家」となったものである。