「小笠原流(おがさわらりゅう)」の始まり
小笠原家に伝えられた弓馬の故実および礼法を小笠原流という。その起源について『和事始』のなかに「小笠原家和禮のはじめは後醍醐天皇のおんとき、甲州源氏小笠原信濃守貞宗といふ人あり。弓馬故実をしれり。あるとき、禁中にて的のくはだてあり。そのときの武将尊氏(足利)、義貞(新田)をはじめ在京してあるところの名ある士のこらずめし出され、的を射さしむ。そのなかにも貞宗が射禮、衆にぬきんで、的にあたることもまた群に超えたりしかば、帝(みかど)、叡感のあまりに貞宗に昇殿をゆるされ、弓馬の故実を勅問あり。委細に勅答まをしあげれば、彌叡感のあまりに、太子および諸皇子の御師範とさだめたまひ、信濃國の守護職をゆるされ、あまつさへ従五位下に叙せらる。その上弓馬の道においては一天下の師範たるべきよしの勅諚あり。貞宗家の面目をほどこし入国せらる。さて貞宗の玄孫に兵庫助長秀といふ人あり。将軍義満公(足利)に従仕せり、義満公、今川左京太夫氏頼、伊勢平氏武蔵守満忠、小笠原兵庫助長秀、彼等三人にめいじて武家の禮法をかんがへさだめしめらる。三人家々の秘伝、世の古禮を参考して一書を撰んでのぼる。名づけて『三儀一統の當家弓法集』といふ。青蓮院の清書にて一七日に書立て天下にひろむ。これより小笠原家倭禮の家として代々将軍家につかへ、天下の師となりてあまねく人にもちひらる。これ小笠原家和禮のはじめなり」とある。
小笠原流流鏑馬射手
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