「水療法(みずりょうほう)」の始まり(その1)
沐浴や灌水などの簡単な水治法は古代から行われており、『出雲国風土記』の中に大穴持命の御子が長じても昼夜大声で泣くことが止まず、言葉が分からない時は身体を沐浴させたことが書いてある。それは当時の人々が、すべて疾病の原因は身体の汚れからくるものであり、それを洗い流して病を治そうと考えたからであろう。
また、支那の古書『両朝平壌録』には、日本の古代の風俗が書かれており「御祓い除け」をして病を治す風習があったとある。次いで平安時代の永観2年(984)3月に、丹波康頼が著した『医心方』の中には癰腫(ようしゅ:悪性の腫れ物)に冷水をかけて治す方法が挙げられており、当時盛んに行われていたことが『栄華物語』のなかに書かれている。すなわち、後朱雀天皇が肩に出来た腫瘍を医師の薦めにより、患部に水を注ぐ治療を行ったとある。また、『大鏡』のなかに「三条院御風重くおはします、くすしとも大小寒の水を御くしに射させ給ふべきと申ければ、こほりたる水を多くかけさせたまひて御気色もたかくおはしましけり」とあるのを見れば、この方法が広く行われていたことが判る。
くだって『源平盛衰記』には、太政大臣・平清盛が病気の際に行われた大がかりな水療法の話がある。それによると、養和元年(1181)正月に、ふとしたことから病に着いた清盛は発熱が甚だしいために悩み苦しんだので、この水浴療法によって治したいと思い、比叡山から氷よりも冷たい水を運ばせて舟に入れ、これにて水浴を試みたが、効き目がないので板に冷水を注がせて、その上に臥していたが、それも空しく、7日目の閏2月4日に悶絶して64歳の寿命ではかなく死去した。(つづく)