「ドイツ医学(どいついがく)」の始まり
日本では江戸時代からオランダ医学が行われていた。しかし、明治2年(1869)4月頃に肥前藩の相良知安は福井藩の岩佐純とともに召されて政府の医学取調御用掛となり、早くからドイツ医学が世界に比べるものがないほど優れていることに着眼していたので、当時勢力を持っていたイギリス医学を退けて、ドイツ医学を取るべきであると力説し、また政府の顧問であったアメリカ人(元はオランダ人)フルベッキも「医学なればドイツ、ことにプロシャが第一」と唱えたため群議を排して、ついにその主張を貫徹した。すなわち、これを直ちに政府に具申し、明治3年4月にドイツからドクトル・ミュルレルとドクトル・ホフマンが来日して、さらに留学生として池田福斎ほか12名をドイツに送り、日本の医学の基礎を確定した。