「和蘭風説書(おらんだふうせつがき)」の始まり
江戸幕府の鎖国政策によって海外の情報は全て遮断されたなかで、僅かに和蘭風説書が唯一の海外ニュースを知る方法であった。これはファレンタインの『日本志』の1643年(寛永20)12月17日の条に「オランダおよび印度(インド)において、もしローマ教の宣教師が日本へ向けて行ったこと、もしくはポルトガル・イスパニア(スペイン)両国が日本に対して何か始めるようなことを聞き込んだならば、早速、日本の当局者に通報せよ」とあるように、最初は日本のキリスト教徒と外国との交渉など、オランダ人が見聞したことを幕府に密告するいわゆる「御奉公筋」あるいは「御忠節」に端を発したものであるが、後には諸外国の情報または国際関係にいたるまでオランダ船が入港する毎に、報告させるようになったのが「和蘭風説書」の始まりである。
江戸時代末期の安政元年(1854)にいたり、オランダ政府の申し出によりこれを廃止し、その代わりにオランダの新聞を献上して蕃書調所で翻訳されるようになった。これが日本における新聞紙の始まりである。