「貰い子殺し(もらいこごろし)」の始まり
養育金を目当てにして子供を貰い、その子供を殺害することは決して近代のことではなく、既に江戸時代中期頃から行われており、その方法も今日とほとんど同じようであった。
すなわち、宝暦3年(1753)頃、江戸の新町與兵衛店の藤八方に寄留していた半七という者が、偽名で5人の子供を貰い受け、そのたび毎に養育金として受け取った礼金は五両三分におよんだ。そして子供は5人とも、絞め殺したり、生きながら土中に埋めたり、菰に包んで川に投げ込んだり、畑にうち捨てるなど各々別の方法で殺害した。また共犯者の平吉は同じ町の家持ちであったが、半七が名前を偽って子供を貰う際に口入れをしたり世話をして礼を貰い、養子証文に偽名を知っていながら印を押したり、先方へ辻褄の合うような返事をして手伝ったが、これが暴露して検挙され、ついに町奉行依田和泉守政次の指図、土屋越前守正方の掛かりで裁判となり、半七は「見懲(みこらしめ)のため町中引き廻しのうえ、日本橋にて三日晒しの上、浅草において磔(はりつけ)申しつける」という重い判決を受け、また平吉は「重々不届至極につき、町中引き廻しの上、死罪申しつける」という厳しい処分を受けた。
しかし、養育金まで付けて他人に渡すような子供の裏面には、色々深い込み入った理由が潜んでおり、死んだと聞いても案外ホッとする親が多いのではなかろうか。