「喪服(もふく)」の始まり
平安時代の名僧行尊が「わが立つ杣(そま)は黒染の袖」と詠じたように、当時の僧侶はもっぱら黒の衣をまとったので、緇徒(しと:緇は黒染めの衣のこと)とも呼ばれた。
奈良時代の大宝元年(701)8月に定められた僧尼令のなかに「僧尼がたやすく俗衣を着けたならば百日の苦使にせよ」と規定し、俗人の白服と厳重な差別が付けられた。ただし、神官等は庶民であったために白衣を着ていた。
このように黒衣は仏教徒を意味するものであったので、喪に服した俗人がその間に精進して黒い表章を付ける風習が生まれた。
仏教の内容が空虚となるにしたがって、上は大僧正から下は味噌摺り小僧に至るまで、金襴、紫、紅、緑などの絢爛たる袈裟法衣に飾り立て、その下に白い衣を着て表面の形だけはあたかも生仏のようになったのは
近代になってからである。
このように俗人の白衣が廃れて縞や絣などの模様物を着るようになっても、喪に服す時は黒衣をまとい、江戸時代からはそれが喪服と呼ばれるようになった。